年頭の御挨拶を申し上げます。 本年も宜しくお願いします。
2016年 1月1日 斉藤 孝
2015年は73歳の老体にとりまして極めてアクティブな一年でした。毎月のように海外に出かけました。やや焦っているようではずかしいですが、確かなことは体力と知力の衰えを日々実感したからです。物覚え、筋力不足、眼精疲労、言語障害など他人事ではなくなりました。外国語が思うように出てきません。上ずった声で喋るらしく相手に聴き取れなく大変ご迷惑をかけています。このままでは大好きな海外旅行も後3年もすれば難しいと判断しました。
生まれ故郷の中国青島 70年ぶりに生まれ故郷の中国青島を訪れました。青島ビールで知られていますが、第一次大戦まではドイツ植民地でしたからドイツ人好みの青島ビールが作られたわけです。1919年に日本が占領。捕虜になったドイツ兵士が四国板東収容所で日本で初めてベートベンの第九を演奏したそうです。私の生まれたドイツ様式の洋館と同じものが多く残っていました。 左のモノクロ写真は生まれて数か月の赤子の私が自宅の門柱の前にいます。4歳の頃になるとドイツ様式の門を微かに覚えています。多くの洋館はそのまま残っていました。写真を片手に探した結果、よく似た門柱を見つけました。隣は白系ロシア人で美味しいラスクをもらったことを思い出しました。(写真 自宅門の赤子の私 よく似た鉄の門)
母トミは94歳 1942年9月6日に青島赤十字病院で生まれました。1946年になり敗戦後の焼土と化した日本に引き揚げてきました。小さな私の手は母親にしっかりと握られて、破れたリックサックを背に担いで歩いていました。辿りついた母の実家の富山市はB29の空襲で全市まる焼けでした。焼け焦げた黒いトタン板をよく覚えています。その気丈な母親は94歳になり、介護ホームで穏やかに過ごしております。
私も難民だった シリアなどの難民の惨状は毎日のようにニュースで流れます。エーゲ海で3歳男児の溺死した写真は世界中に衝撃をもたらしました。私も似たような難民だったのです。中国青島で終戦。天津の収容所で一年を留め置かれ1946年になりようやく帰国できました。米軍から借りた大型戦車上陸用舟艇(LST)に日本人引揚者は家畜のように乗せられて佐世保に送られました。今や青島は美しい近代的な大都会です。日本統治時代の面影はありません。もちろん青島神社も残っていませんがドイツ砲台跡や総督府、そして赤い屋根のドイツ様式の住宅はそのまま残っていました。親切で上品な青島市民と日中友好を楽しみました。本当に青島で生まれて良かった。
草花を立体的に植える 御隠居の身では今の専門はガーデニングと農業です。片瀬山の古家の小さな門の上にトレリスを作り、そこに薔薇や山葡萄、蔦類を這わせました。つる薔薇は赤と黄色、モッコウ薔薇は白です。柔らかな細かな山葡萄の葉っぱと見事な緑の組み合わせによりモネの絵画のように見えます。鵠沼のマンションの小さな庭は背丈の高いジキタリと白百合を配して40本の様々な色合いの薔薇を育てました。ガーデニングについては庭作りと園芸の記録をご覧ください。(写真 片瀬山 、鵠沼庭)
アウシュビッツ強制収容所 極寒の2月にフィンランドのヘルシンキから船でエストニアのタリンに渡り、そこからラトビアとリトアニアを抜けてポーランドに行きました。古都クラコフでは近くにあるアウシュビッツ強制収容所を見てきました。観光地ではありませんが、ナチスドイツのユダヤ人迫害の地として歴史遺産になっています。ナチスの犯罪は数多くあり、それを題材にした映画は多すぎて数知れません。
(写真 ベルリン・ブランデンブルグ門 クロアチア・ドブロブニク アルメニア)
映画「ハンナ・アーレント」 映画「ハンナ・アーレント」は全く違った視点からナチスのユダヤ人迫害をとらえていました。アイヒマン裁判を題材にした映画です。深く考えさせられ たのはアイヒマン裁判を「悪の陳腐」という概念で結論付けたことです。悪とは普通の人間に内在する問題であるという意味です。アイヒマンはナチス親衛隊中尉で600万人のユダヤ人をアウシュビッツなどの強制収容所に送り込んだ特別な人間と思われたが、忠実に命令を実行するだけのどこにでもいる普通の人間だったのです。多くの戦犯とおなじような軍隊官僚組織の犠牲者でした。
哲学は日陰者 イスラム国(IS)に参加する若者達も「悪の陳腐」で解釈することができます。狂信的なイスラム教徒もテロリストも特別な人間ではなく普通の人間なのです。インターネット(SNS)とイスラム原理主義思想を巧みに結びつけた結果生まれた人々ですが、特別な預言者ではありません。普通の人間が陥る「悪の陳腐」が恐ろしいのです。哲学者ハイデッカーの愛弟子であるアーレントは、「考えることで人間は強くなる」と講義で締めくくります。個人が自分で判断する能力を持つという哲学の必要性を説いてい ました。残念ながら日本の大学教育では哲学は日陰者扱いですね。
(写真 ポルトガル スペイン・サンチャゴデコンポステラ スリランカ・象の孤児園)
「命のビザ」の杉原千畝さん 世界地図や世界史を毎日のように読みふけっています。今年は3月にフィンランド からエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国とポーランド。リトアニアのカウナスでは「命のビザ」の杉原千畝さんの領事館跡(杉原記念館)を訪ねました。難民ユダヤ人にビザを発給して亡命を助けた杉原さんは日本のシンドラーだったのですね。 スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」は素晴らしい名画です。杉原千畝さんの映画も公開されたそうで嬉しくなりました。
爆旅で海外旅行 4月には野生のシクラメンが咲くアルバニア、モンテネグロ、ボスニア、クロアチア、スロベニア
のバルカン諸国を回りました。5月〜6月は長年の夢でしたアゼルバイジャン、アルメニア、グルジアのコーカサス諸国
。7月はデンマークのコペンハーゲンからドイツのリューベックまで列車で旅をしてベルリンまで行きました。9月は
生まれ故郷の中国山東省。10月はスリランカの仏跡を巡礼。11月はポルトガルとスペイン
のサンチャゴ・デ・コンポステラを巡礼。12月はドイツのクリスマス市場でホットワインを楽しみながら警戒厳重なパリまで行きました。
初めて美しいパリ国際大学都市を訪れ日本館館長をしている友人に会うことができました。老体に鞭打つ過酷な海外旅行
を続けましたが、なんとか達成感を得たようで満足しています。
孫のテニス 2015年のテニスは不調でした。ご近所のみなさまと毎週プレーする結成 30年にもなる片瀬山テニスクラブですが、欠席することが多々ありました。なかなか上達しません。小学生になった孫の悠真の方が今では上手いのではと思います。悠真はテニススクールで幸運にも日本が誇 る世界的 テニスプレーヤー錦織圭さんから直接レッスンを受けるというチャンスに恵まれました。写真では錦織圭さんの後ろで大きなラケットで顔を隠しています。その姿は控えめ 、世界の錦織圭さんを讃えてのことでしょう。 (写真 錦織圭さんと悠真 悠真のテニス)
ワインとアルスロンガ農園 大河原新太郎君の旧家と広大な農地をそのまま利用させてもらい、今では常時20数名の仲間が集い、楽しく農作業を行っています。その農作業の範囲は、パプリカ、ジャガイモ、大根、玉ねぎ、長ネギ、サトイモ、カボチャ、キャベツ、トマト、小松菜、チンゲンサイ、アーティチョーク、ハーブなど約30種類にもなります。 それだけではなく、ワイン用の葡萄も育てています。さらに、大根を干して燻り、干し柿を干し、味噌と納豆を作り、杏ジャムを作っています。 苦難の連続でしたが自作ワインの味は上々でした。 (写真 松井田でヌーボーワインを祝う)
高齢者農業の実験場 アルスロンガ農園は高齢者農業の実験場ともいえます。集団農場のキブツやコルホーズに似た感じもします。近所の人々から、怪しげなカルト集団や邪教の集会などとあらぬ疑いの目で見られることもありました。毎月、定期的に集まり、農業に明け暮れて夜は酒盛りを楽しんでいます。世情を憂い、愛国論争もありますが、 みなさま年齢70歳代ですからイデオロギーやアカデミックな論争は過去の遺物。お互いに痴呆を諭し合いながら、介護問題や健康問題を話題にして、ひたすら飲んでいます。ピザとフランスパンを焼く。ソーセージを作り燻る。自家製味噌と激辛味噌。餅つき。あらゆることに挑戦と研究の日々が続きます。
詳しくは、アルスロンガ農園 松井田便り
楽しき仲間 高齢者の楽園 4年前に10日間のエベレスト街道を歩き世界最高峰を眺めたヒマラヤ戦友会。毎年晩秋に開いています。全員参加で銘酒も集まりました、越の景虎、一ノ蔵、嘉宝、数々のワインも開けてしましました。コブキ女将が手料理を仕切ります。怪しげなイワシのテリーヌ、鮟肝のコンフィ、ナマコ、酒の粕煮 など肴はお酒に圧倒されました。(写真 KWVヒマラヤ戦友会のみなさま)
ご近所の仲間では伝統ある片瀬山テニスクラブの名前を忘れるわけにはいきません。2015年末になり待望の新人、それも若き女性をクラブの新メンバーとして迎えることができました。福井会長をはじめ老齢な男性メンバーのプレーに対する意識が変わったようです。詳しくは、片瀬山テニスクラブをご覧ください。
(写真 片瀬山テニスクラブのみなさま)
個人Webサイト http://www.rr.em-net.ne.jp/~saitotac/index.html
みなさまのご健康と御活躍を祈ります。 2016年 1月1日
斉藤 孝