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   アメリカ歴史の旅(その1)  知識地図


今回は、記録情報学的な視点から眺めたアメリカの歴史です。 

記録情報学では、知識地図(K-Map)が重要な道具になります。

K-Mapは、人々情報を得るための知識獲得について図解したものです。

知識地図は、世界地図と同じように人々の歴史、文化、教養の様相を

知識の模型として表現します

 

ニューヨークの自由の女神

 

 

 


  

地球儀と地図帳

どこの国でもまず歴史です。ごく普通の人々の日常生活にも必ず歴史が凝縮されています。

歴史を知るには、地球儀を置くことから始まります。それは国際化や世界人の始まりです。

そして、手元にはいつも世界地図帳。

 

New Yorkにて(拡大します)

アメリカ合衆国には、それほど多くの歴史的な名所旧跡はありませんが、

広いアメリカなので何処からスタートすればよいか迷います。

東部では清教徒の開拓地であるプリマス(マサーチュッセッツ州)。

独立戦争では最後まで英国に帰属したウィリアムズバーグ(バージニア州)。

南部ではフランスの影響が残るニューオリンズ(ルイジアナ州)。

中部では、フロンティアの拠点セントルイス(ミズリー州)。

西部ではゴールトラッシュのサクラメント(カリフォルニア州)。

 


 

リンドバーグの大西洋横断飛行機

      文明国史上空前の愚行 

アメリカ合衆国の歴史は、1776年の独立宣言以降ではわずか約230年。コロンブスが今のドミニカ共和国のあるカリブ海の島を発見したのが1492年でした。その頃イベリア半島では、カステリア・レオンの連合王国によるレコンキスタ(キリスト王国によるイスラムからの解放)がイザベラ女王の指導の下、着々と進んでいました。残るのは半島南部、アンダルシアのグラナダだけになり、それを攻略したのが1492年でした。十字軍以来続いてきたキリスト教クルセーダ思想の最終的勝利を告げる年でもあるわけです。現代のイスラム原理主義による復讐思想、ジハード思想もこの影響かもしれません。

 

戦没者の慰霊

クルセーダとジハード、どちらも同じ一神教によるものです。過酷な 宗教闘争について、なかなか日本人には理解できません。イスラム教やキリスト教は他の宗教、特に偶像崇拝や多神教を邪教として徹底的に破壊してきました。タリバンによるバーミヤンの仏像の破壊を思い出してください。その昔は、パレスチナに侵入した獅子王のリチャードやサラディーンの死闘を思い出します。今のイラクに対するアメリカの態度は、このクルセーダ思想とシオニズムが合わさった危険なものです。

ノーベル平和賞を昨年受賞したカーター元米大統領は、イラク戦は「文明国史上空前の愚行」と嘆いていま す。たとえフセインは独裁者で、大量殺戮兵器を隠し持っているとしても。だからといってアメリカのイラク攻撃を正当化する理由にはなりませんね。思うように行かない産油国に対する、米英のアングロサクソン流の歴史観にも原因があります。困ったことに、アメリカ人の中には、このような勝手な正義観があることで、まるで西部劇にあるリンチ(私刑)に似た行為を正当化することです。やがて冷静になり、大いに反省するところもアメリカ人の魅力です。もともと、イラクに問題があるのではなく、アメリカに問題があるのです。 

 


 

リンカーン像(拡大します)

     1497年のジョン・ガボット 

北アメリカの発見は、1497年のジョン・ガボットといわれています。彼はコロンブスと同じイタリア人であることは知りませんでした。私は名前がジョンなのでイギリス人かと思っていました。ジョン・ガボットは英国に雇われてブリストル港から船出して、今のカナダのニューファンドランドに到着したのが1497年でした

南米のペルー・インカを征服したフランシスコ・ピサロがわずか百人スペイン兵によって征服されたのがが1533年頃。そしてメキシコのアステカ帝国のコルテスによる征服が1521年頃でした。 

 

 


 

  ベトナム戦争の碑        メキシコの怨念

その間、北アメリカは静かでした。1600年代になりフランス人によるニューファンドランド(Nova Scotia)への到着が1603年。イギリス人は1607年に初めてバージニアにやって来ました。そして、1620年には有名な清教徒がマサチューセッツに来ました。1626年にはオランダ人がニューアムステルダム(現在のニューヨーク)を開拓。フランス人も、1642年に今のカナダ・モントリオールを開拓。このようにして東北部は主にイギリスとフランスが開拓し、その後になり両国の利害から1744になり英仏戦争になるわけです。ところで、メキシコが悔しがるのは、アラモの戦いで有名なサンタ・アナ将軍の愚行です。1840年代にメキシコはテキサス、ニューメキシコなどをアメリカ合衆国に分割。その前には黄金のカリフォルニアも失っています。その広さは現在のメキシコ共和国の半分にもなり、天然資源の損失は計りしれません。逆に、アメリカは大いに富を得たことになります。 

 

 


        移民の歴史

19世紀末、1840〜1892年頃までに主にヨーロッパから大量な移民がアメリカ合衆国に入国しました。そのために1892年にはニューヨーク湾のエリス島に移民センターが開設されています。そこは、今では移民の歴史を展示する博物館になっています。興味深い展示物があり、多くのアメリカ人が自分たちの祖先、アイディティを探るために来ていました。簡単に移民データベースから氏名などから検索できるサービスが印象的でした。

 

移民の収容施設であったエリス島

 

 

 


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