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 アメリカ歴史の旅(その3)   日系人と強制収容所


     メモリアルデーの行進                              人種差別の 大国

アメリカは偉大な自由の国であるわけですが、一方では偉大な差別の国でもあるわけです。

WASPを核にして、次々に到来する移民は差別の輪を拡大してきました。コーカサイド(白色人種)間でも、まずアイルランド人は過酷な差別を受けました。彼らはセントパトリックを拝み、我慢しました。その 苦しい経験から、次に大量に到来したイタリア人を差別しました。ポーランド人やスラブ系の人々は長らく差別されてきました。そして、西部開拓が進むにつれて、これらの差別されたコーカサイドは、その積年の恨みをモンゴロイド系アジア人に向けました。代表的なものは、中国人と日本人に対するものです。もちろん黒人やその混血ムラートに対するものは続いてきましたが、皮膚の色を別にすれば彼らはほとんど混血。その結果、体形はコーカサイドに似てきました。体形からの差別はなく、皮膚の色の差別だけが残りました。ところが、モンゴロイド系は体形が小型で、容貌が貧弱なためか依然として差別されています。その差別の頂点に達した出来事が、「日系人の強制収容所」でした。

 


  

  死の谷(拡大します)  アメリカ合衆国の強制収容所   「マンザナ強制収容所」

カリフォルニアの中東部、シエラ・ネバタ山脈の東側のネバタ州と間に砂漠があ ります。その南は有名な死の谷(Death Valley)ですが、その不毛の地にローン・パインという小さな町があります。「マンザナ強制収容所」はその町の近くにあったそうです。大きな詳しく説明されたカリフォルニアの地図を調べたのですが、マンザナ(Manzanar)という地名はありませんでした。ユダヤ人のホロコーストを行ったアウシュビッツやダッハウの強制収容所はあまりにも有名ですが、なんと自由と民主主義の国、アメリカ合衆国にも強制収容所があったのです。

それも日本人と日系人専用のもので、約8万人もの民間人が財産と市民権を奪われて、マンザナなど東はルイジアナ州までに広がる10数箇所の強制収容所に入れられました。 

ところで 死の谷(Death Valley)とは、 東西24キロ南北200キロに広がる大砂漠です。高低も極端で、 最高地点は3368メートル最低地点は海抜マイナス86メートルあります。 史上最高気温は1913年に57度も記録された過酷な土地

 

 


               カリフォルニアの歴史

サクラメントキャピトル

カリフォルニアの歴史を 凝縮したものがサクラメントの歴史かもしれません。オールドサンラメントは、John Augusta Sutterによって開拓されました。彼は1803年にドイツ生スイス人です。なかなか色男で多くの女性から慕われほら吹きな伊達男でした。彼は1人の女性を妊娠させ、それから逃げるようにして1826年にカリフォルニアに来ました。当時のカリフォルニアはメキシコの領地で、その管轄政府はモントレーにありました。Sutterは、メキシコ政府に対し、1839年に市民権を獲得してサクラメントに住む許可を得ました。それがサクラメントの誕生です。

最初の名前は、故郷スイス因み「New Helvetia」でした。Helvetiaはラテン語ですが、スイスの国名で切手にはその名が印刷されています。

 

 

1848年になると、アメリカン河で砂金が発見され、ゴールドラッシュが始まります。それと同時にSutterの理想郷としての夢も破れ、1880年に東部で寂しく死んだそうです。

サクラメントの繁栄は、ゴールドラッシュと大陸横断鉄道の西側の拠点でした。サクラメント河とアメリカン河の恵みと肥沃な大地と温暖な気候。あらゆる農業に適しています。

 Sutter砦

 

 

 


    浄土真宗のお寺                日系人の歴史

1941年の真珠湾攻撃による日米開戦。1939年にはドイツはポーランドを攻撃して第二次大戦が始まっていました。この真珠湾攻撃によって米国は正式にドイツに参戦しました。「日本人の強制収容所」への連行は真珠湾攻撃を憎んでのことだけではありません。ドイツ系やイタリア系も敵性市民であるわけですが、彼らには一切、強制収容所送りはありませんでした。もっとも彼らを選別したらアメリカ人口の三分の一程が該当します

渡辺正清氏の名著『ヤマト魂 アメリカ・日系二世 自由の戦い』集英社 2001では下記の説明がありました。

 

「すばらしい日本人」「日本人の血をうけたことを誇りにしています」

日本人に対する長くて厳しい排日の時代を生きてきた日系人(一世)がみずから言い聞かせてきたことです。 それがかれらが生きる目的であり、支えでもあった。日系二世は、アメリカ市民でありながら外国人として扱われ、迫害を受け ました。「ガマン」という、親の口癖にしていた日本語をかれらの血と肉の一部として時代を生き抜いた。

アメリカ市民として人権をふみにじった国家への怒りと悲しみ。それを感じながらも、その国家に忠誠を誓い、銃をとった二世。

 

日系兵士と収容所の母親

1943年に日系二世兵士だけで編成される「第442歩兵連隊」が生まれました。マンザナからもその部隊に加わり、イタリアのモンテ・カシーノの戦いで戦死した人がいます。この戦いには、ハワイ出身の日系人部隊「第100歩兵大隊」も加わっていました。私も昔、その激戦の中で、英雄的に活躍するワン・プカ・プカのことは知っています。その映画で傑作だったのは、シシリー島上陸して、小さな町をドイツ軍から解放し、イタリア人から歓迎される様子ですイタリア人の年老いた婦人がアメリカ人を初めて見るわけです。身体が小さく、中国人に似ている。これがシシリー島のある村人とアメリカ人との遭遇でしたフランスでも英雄的な活躍で、多く死傷者をだ しました。その功績が2000年になりやっと認められて、「名誉勲章」がクリントン大統領から生き残りの22名に授与されました

 


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