KWV41年キチ会

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4-1) 七時雨山 田代平BC  1962年8月2日

   

あれから半世紀以上になる。陸奥の山々を迷った苦しい想い出。真昼岳は真昼の暗黒と呼んだ。藪漕ぎ、沢下り、とにかく熱く暑くて・・・・・。

田代平BCでキャンプを張っていたら、「あん方は自衛隊なのか」と牧童から素朴な問いかけがあった。

騎馬戦で遊んだ記憶もある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


4-2) 夏合宿 七時雨山 田代平 1962年8月2日

 

左から3番目にゴダイメが写っている。彼の家は浅草の卵卸問屋だった。その五代目であると自称していた。ハリー・べラフォンテの物まねと歌「バナナボート」が上手かった。卒業後のある日、カメ宅に百科事典「ブリタニカ」を売りに来たことがあった。Kame

 

 

 

 

 


4-3) 夏合宿 妙高高原  1963年7月21日〜8月2日

 

 

 

 

 

 

 

 

カラーによる集合写真は珍しい。2年生の夏合宿。前列の左端に裸のエータンがいる。右後方でコブキと肩を組むのはオバーだ。その横はミドリなのか。その左には五代目とアタエちゃん。間違えたようだ。ミドリの前に座っているがコブキだろう。Kame

 


4-4) 秋期2年合宿「北八ヶ岳」1963年10月19日〜21日

松宮L.のもと2年生6人でプライベート山行の様なくつろいだ雰囲気。渋ノ湯から高見石・白駒池TSへ。北ヤツを北上し双子池TS〜蓼科山から親湯へ下るコース。今なら白駒池も麦草峠も、更には大河原峠までも車で簡単に登れてしまう。汗を流して歩いた路が隔世の感と言うにはあまりにも安っぽく淋しい。でも「見よ このミドリの黒髪を!」幾星霜を経た現実を見せつけられナットクした。

(T.ST.Shimada、チビチョン)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


4-5) 春合宿  五色温泉  1966年3月1日〜6日

「卒業を前にした五色春合宿家形山ツアの4年生。みんな若かった〜! あっテツの雄姿がある。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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4-6) 谷川岳白毛門から平標まで  1968年11月3日〜5日

この格好はドシーに違いない。Kame

 

亡きドシに捧げた私のベストショット「秋の浅貝の小屋」です!

「谷川岳白毛門から平標まで」と勇んで出掛けた珍山行でした。入社して2年目のS43.11.0305 金のない三連休、土志田と涸沢行きを諦め、谷川縦走して浅貝小屋入りを計画したが〜! 仕事を終えての夜行鈍行は超満員で眠れず、土合駅の階段と白毛門入口迄でダウン。急遽浅貝に向かう。ポチャとQちゃんが居て、翌日4人で村木から平標登山。秋晴れの山頂で昼寝して元橋に下山。当初予定通り「白毛門から平標まで」は実行された。静かな小屋で秋を愉しんでいたひとときのショットです。

平標直下の草原でのスナップ:一升瓶片手に“一杯ヤッカ!”   みんなで笑い転げました。迷プランナー・ドシの面目躍如たる中抜け谷川岳縦走、心に残る秋の山行だった

(T.ST.Shimada、チビチョン)  

 

 


4-7) 春合宿 五色温泉   1966年3月1日〜6日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

約200名の部員が五色温泉スキー場で互いに肩車をして巨大な円を造った。

空に向かい大声で歌うのは「旧き友」や「若き血」だった。五色温泉はぬるい。長湯しなければ風邪をひく。宿の襖は隙間だらけでセンベイ布団だった。合宿最後の夜はパーティー別の寸劇を楽しんだ。カメは毎年演じたのは女役だった。一年生の時は「かぐや姫」。そして二年生の時は「クレオパトラ」だった。クレオパトラの入浴シーンは是非とも露天風呂でと希望したが誰も賛同してくれなかった。Kame

 


4-8)  春のWK  浅貝  1963年6月14日〜16日

チビの肩に手を伸ばすはアラン・ドロンに似た男、今井だろうか。Kame

正月に中津帰省で参考書代と称して貰った金でオリンパスペンを買った。1年の5月連休明けに満員と入部拒否され、2年から入部して初の大イべントで被写体を選ばず撮りまくった。爾来、記録好きになった最初だ。

 

 

 

 

最終日、帰京バスを待つ間、庭の白樺の周りでみんなノンビリと過ごす姿のスナップ写真。装備品を仕分けするカメや下級生を尻目に、三々五々ダベリながら初夏の浅貝小屋を愉しんでいる。

 

 

 

 

若きワンダラーが200人以上もいて、小屋が本当に若さムンムンで勢いを感じた時代だった。懐かしい限り!

(T.ST.Shimada、チビチョン) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2年合宿 三国山の下り  1963年7月5日

 

 

 

 

 

 

 

 

2年リーダー養成  1963年

 

 

 

 

 

 

 

 

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4-9) 雲ノ平  1964年6月4日〜9日

  わが想い出の山旅  (T.ST.Shimada、チビチョン) 

 

S39.6.49 L.古平SL.バラバ 総勢9人「残雪期 雲の平〜裏銀」プラン。大町七倉からブナ立尾根を登り、野口五郎岳を越え積雪の雲の平に入る。

白銀の雲の平で2泊、誰もいない天上の楽園を思い切り散策。

 

 

 

水晶岳をピストンし、馬蹄形稜線を三俣蓮華〜黒部五郎〜薬師岳と回り、太郎平から折立へ下った。

 

 

 

 

 

 

残雪期シーズン前の無人の北ア山中5泊の山旅で山への憧れを一層強くした。前年1月の愛知大薬師岳遭難が生々しかった。  

左端の女学生らしき美女はオカルなのか。山の娘ロザリア。古平も真面目に山登りしていた。

オカルの右隣りはバラバ。あの古代ローマ帝国奴隷の顔。またはシチリア・マフィアの顔。後ろに見えるのは槍が岳だ。 Kame

 

 

 


4-10)  朝日、雪倉、後立山縦走プラン  1962年

 

1年生はマサボンとトンべ2人でした。2日目の五輪尾根でバテて倒れ込み、アコさんに優しく介抱された甘い思いでがあります! トンベ

 

 

 

 

 

 

 

こんな山男姿の真っ黒な曲線美で我慢していた。あのマサボンがまるで別人のようだ。50年後はネパール人と勘違いされ「ナマステ」と挨拶されている。トンベは眼鏡も似合う好青年で、いかにも塾秀才顔だった。Kame

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


4-11) 八ヶ岳FCの同期メンバー!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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4-12) ゴンサクのハーレム

これ本当にあのゴンサクなのか。Kame

コメントは照れくさくていやです。敢えて書き込むなら、「これ本当にゴンサクです。 決してカメ創作の合成写真ではありませんぞ。。」位で勘弁してしてください。(佐藤昇君 ゴンサク)

左端で首を横にするのはヌカリだろうか。その下で優し気に座り込む乙女はモツ(トンベ夫人)なのか。右下には弁護士夫人になるマドンナもいる。ゴンサクのハーレムだった。Kame

 

 

 

 

 


4-13) 夏合宿BCあけび平

アタエチャンは二人の男から肩に手を伸ばされて迷惑そう。こんな乙女だったのかーー。 Kame

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アタエちゃんも大変苦労した。真っ黒な太ももを露出する強者二人。ワンダーてこんな山賊のような仲間ばかりなの。ヤメターイ。

あれから50年。あの乙女はどこへ行ったのか。1950年代はベトナム反戦歌が流行していた。Pete Seegerの名曲『Where have all the flowers gone』が懐かしい。

 Where have all the flowers gone, long time passing?
 Where have all the flowers gone, long time ago?
  Where have all the flowers gone?
  Young girls have picked them everyone.
  Oh, when will they ever learn?
  Oh, when will they ever learn?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

丸太を掴むグゥシー、その横はタルイシだろう。その右横はドラとミドリなのか。ミドリにしては頭がふさふさ。左端は足長のダチョーだろう。右端は後輩だ。タルイシは生きているのだろうか。タルイシよ。もし、この写真を見たら是非とも連絡してほしい。

 


4-14)  マサボンの写真館

ここはマサボン(相川正汎君)から提供された写真館です。

FC 鳳凰三山   1962年5月18日〜21日

学・入部して1ケ月、まだ仲間の顔と名前が一致しないまま、ワンダー生活が始まった。緊張して夢中で歩いたはずだが、余り記憶にない。夕方遅く南御室小屋近くにテントを張り、薪を焚いて大鍋で初めてのメシをつくった。残った友(今井・小山)亡くなった友(大林、鈴木哲?)去った友(吉沢・村上)

2007年10月にチビチョンの呼びかけで45年振りにFCコースを歩いた。久米、下井、今井、安藤、横山、相川の7名、改めて北岳を眺めた。御座石への下り4時間は長くて再びしごかれた。(マサボン)

 

 

 

 

初めての一般プラン 尾瀬ヶ原 1962年6月1日〜4日

FCの関門通過の翌月、初めての一般プランだった。他に井上、後藤が参加。水芭蕉が見ごろだったが、花を愛でる顔ぶれではない。京都のボンは、すでにおもろかった。(マサボン)

京都の小山芳樹がこんなに童顔でひ弱だったのか。

ところで鈴木哲は亡くなったのかね ?。 Kame

 

 

 

 

 

春の北沢BH  1965年4月
3年の学年末は学費値上げ反対運動で三田の山は揺れた。期末試験が1月遅れ春の一般プランは殆ど中止に。この北沢BHは4月半ばに順延して実施に。甲斐駒、仙丈岳をピストン登山。 快晴 強い日差しに、皆 うれしそう。
前列右の4人は小山、相川、佐藤、大。
(マサボン)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4年の夏 北海道合宿 1965年7月

ワンダー初めての北海道合宿。富良野から入ったBC地「原始が原」での開会式。森林の中の感じ。
雨が多く涼しかった。長く座っているとお尻が濡れてきて まいったね。
(マサボン)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


4-15)   コブキの写真館

                   Photo 1     1-7) にも掲載

ここはコブキから提供された写真の貸し切り写真館。

 

3年のリーダー養成

平山君の事件が起こる少し前の写真です。平山君のパーティーが調子の悪い人が出たということで休んでいました。我々女子パーティーはしんがりでしたがそのパーティーを追い越していったのですが後からパーティーを分けたということで1っ本立てている所に追いついてきた所の写真です。(Kobuki)
 

平山君の事故は驚いた。マサボンと二人で湯沢の交番に事故について知らせに行った。飛び跳ねるような超スピードで山道を下った。翌日の新聞に「亀谷孝という慶大ワンダー学生が事故死」と報じられた。母親は驚愕。朝日新聞などマスメディアに手を回し事故を封じたのに・・・何故。

誤報だった。母親は、その切り抜き記事を大切に持っていた。(Kame)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1年の春合宿

1年春合宿、歌さんがLでシュラフさんが2年生、1年は私と久米吉とカメの3人でした。(Kobuki)
 

吉之助はコブキとやがて所帯を持つことなど想像もしていなかった(??)。(Kame)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2年の夏合宿

コースは称名の滝から大日岳を経由して室堂に入り、剣・立山から五色が原を経て黒部川に下り、黒部を遡行して黒部に合流する東沢を詰め、野口五郎あたりに出る。そこから針の木・鹿島槍を経て白馬迄10日を超える縦走で荷物も重く、バテながらも良く歩いた。下山後漬物一切れで茶碗一杯を食う程の胃拡張を経験したのもいい思い出だ。(吉之助)

シュラフさんL、ネリカンさんSLで久米吉、クリニー、小山君、古平さん、吉岡さんが参加しています。(Kobuki)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シュラフさんはハンサムガイだった。エルビスプレスリーに似ていた。卒業してから東芝勤務の時代、札幌に仕事で行った折、夜の狸小路で御馳走になった。当時シュラフさんは千歳で牧場(?)を経営していると言っていた。体の不自由な弟のためだと言う。あの都会向きのシュラフさんの顔をあらためて見直した。兄弟想いの立派な人物だったのだ。その夜は遅くまで二人で飲んで歌った。となりで蛮声を上げるグループは警察官たち。シュラフさんの大切な知人であると言う。夜の札幌と何か関係が・・。懐かしい50年前になる。(Kame)

 

 


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