斉藤 孝 の ガーデニング  庭作りと園芸の記録

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生まれ故郷の中国青島

2016年に70年ぶりに生まれ故郷の中国青島を訪れました。青島ビールで知られていますが、第一次大戦まではドイツ植民地でしたからドイツ人好みの青島ビールが作られたわけです。1919年に日本が占領。捕虜になったドイツ兵士が四国板東収容所で日本で初めてベートベンの第九を演奏したそうです。私の生まれたドイツ様式の洋館と同じものが多く残っていました。 左のモノクロ写真は生まれて数か月の赤子の私が自宅の門柱の前にいます。4歳の頃になるとドイツ様式の門を微かに覚えています。多くの洋館はそのまま残っていました。写真を片手に探した結果、よく似た門柱を見つけました。隣は白系ロシア人で美味しいラスクをもらったことを思い出しました。

中国青島で生まれた チュニジア人家族と 下手なテニスを楽しむ
 

破れたリックサック

1942年9月6日に青島赤十字病院で生まれました。1946年になり敗戦後の焼土と化した日本に引き揚げてきました。小さな私の手は母親にしっかりと握られて、破れたリックサックを背に担いで歩いていました。辿りついた母の実家の富山市はB29の空襲で全市まる焼けでした。焼け焦げた黒いトタン板をよく覚えています。その気丈な母親は98歳になり、 まもなく99歳の「白寿」になります。激動の混乱期を生き抜き、一人息子の私を大切に育ててくれました。今は介護ホームで穏やかに過ごしております。

私は2019年9月6日に77歳の誕生日になり、俗にいう「喜寿」です。父親は35歳の若さで亡くなっていますから、まるで奇跡のようです。ここまで生きていることに心底感謝しています。

 

 

 

 
インド人家族と  エジプト ピラミッド

望郷の痕跡が残っていない

青島は中国の山東 半島にあり東シナ海に位置する港湾都市である。正確には青島市 (チンタオ) 、ローマ字で(Qingdao)と綴ります。現在は中華人民共和国山東省に位置する海洋産業の中心都市であり、東部沿岸の重要な経済と文化の中心として発展しています。また中国人民解放軍海軍北海艦隊司令部のある軍港として有名であり中国初の空母『遼寧(り ょうねい)』が母港としたことでも知られています。近年、中国最大の家電メーカーとなったハイアール(海爾集団)や中国最大のテレビメーカーであるハイセンス (海信集団)も青島を本拠としています。 私が生れた1940年代では青島がこのように大都会に発展するなど想像もできなかった。生まれ故郷が立派な都市に大変貌したことは嬉しくもあるが他方で古いものが無くなり望郷の痕跡が残っていないようで寂しいです。      写真 中国青島 砲台跡公園からの青島市

                                               Page up ↑

 

青島ビール
日本人は青島と聞くと宮崎県にある観光地を想像するだろう。中国人でも青島市がどこにあるのか正確にはいえない。しかし「青島ビール」を知っていますか、問うと中国人ならばだれでもが知っている。最近では日本の中華料理店でも「青島ビール」がおかれている。それほど「青島ビール」は有名なのである。ドイツ風ラガータイプの味だ。「青島ビール」は青島がドイツ植民地であった1903年にドイツ人が開業したビール製造所で誕生した。私の生まれ故郷を説明する時、「青島ビール」の中国の青島ですと自慢している。

日本の支配
第一次世界大戦は1914年7月28日から1918年11月11日にかけて、主にドイツと英国が戦ったがドイツ側にオーストリア・ハンガリア帝国、英国側にフランスやロシアも参戦し後になり米国も英国側に加わった。そして日本は当時の日英同盟に基づき英国側に加わった。最初はヨーロッパ大陸の戦いであったが中近東、やがては極東アジアにまで戦線は拡大していき世界大戦となった。日本軍の戦場はドイツ植民である青島と南太平洋の小さな島々であった。1914年に青島のドイツ軍基地の砲台などを日本軍初めて航空機によって空襲を行った。青島攻略は圧倒的な日本軍の勝利で終わった。

板東俘虜収容所
多数のドイツ軍が俘虜になり彼らの多くは四国徳島にある板東俘虜収容所に送られ1919年のベルサイユ条約締結まで収容された。俘虜4715人のうち、約1000名を板東俘虜収容所に1917年から1920年まで収容された。板東俘虜収容所を通じてなされたドイツ人俘虜と日本人との交流が、文化的、学問的、さらには食文化に至るまであらゆる分野で両国の発展を促した。俘虜の多くは志願兵となったドイツの民間人で、彼らの職業は家具職人や時計職人、楽器職人、写真家、印刷工、製本工、鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋など様々であった。ヨーロッパの優れた手工業や芸術活動を披露した。文化活動も盛んで、同収容所内のオーケストラは高い評価を受けた。ベートーヴェンの交響曲第9番が日本で初めて全曲演奏されたのも、板東収容所のドイツ俘虜だった。

                               (写真 4歳の私)

引き揚げ船
私たち1946年、終戦の翌年1946年まで約一年間、多くの日本人婦女と共に天津の収容所で生活を余儀なくされた。レンガ造りの大きな倉庫だった。日本からの引き 揚げ船を待つためである。1946年の秋だった。日本から引き揚げ船が来るという嬉しいニュースが広まった。天津の収容所から港のある「 「塘涸」まで移動させられた。長い行列を作り、手荷物を大切に持ち、背中には小さなリックサックを背負わされた。迎えの引揚者の船はアメリカ軍から借りたものだった。「LST」と呼んでいた。それは人間を運ぶ船ではない。
正式には戦車揚陸艦(tank landing ship)と呼び、歩兵や戦車などを揚陸する戦闘用船舶である。アメリカ海軍の艦種類別記号てばLST(Landing ship,tank )が当てられる。着岸しやすくするために艦体前部の船底は平になっている。この平らな船底という特徴のため、外洋では横揺れがひどく、乗り心地はあまり良くない。着岸点についたら艦首
の扉を開けて渡し板を繰り出し、車両・兵員を上陸させる。日本軍捕虜に抱きかかえられてLSTに乗ることができた。あの時の日本兵俘虜が規律正しく日本人を面倒みる頼もしい姿を忘れることができない。私たちはLSTに家畜のように詰め込まれ、船酔いに苦しみながら2日をかけて佐世保に無事着くことができた。
(写真左) 引き揚げ船 LSTは朝鮮戦争当時のもの


望郷とノスタルジ

これは私の記憶がまるでROM(Read Only Memory)に焼き付けれたような中国・山東省・青島に関わるノスタルジである。 5歳までしか住んでいなかった青島であるが、まるで50年も長きに渡り青島で生活したかのように数々の想い出が浮かんでくる。77歳になっても夢の中で青島にいた幼児の自分の姿を見つける。

私は世界中どこでも中国人に会うと、゛青島を知っていますか゛と尋ねてみる。多くの中国人は、゛もちろん知っています。綺麗で素敵な都会です。゛と答えてくれる。私は待ってたとばかりに、゛私はその青島で生まれました。゛と得意になって自分史を語りだす。古き良き時代には名優『三船敏郎』も生まれた。第二次大戦で日本文学者『ドナルド・キーン』も青島に上陸したと聞く。私のプライバシーを露見するようで恥ずかしいですが、私の青島物語をお読みください。           (写真右)端午の初節句   

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