聖地巡礼  イスラエルへの旅 「知識・記録・情報」の歴史   2006年3月8日〜17日

      
私は、情報学の視点から三大宗教の聖典(旧約聖書)、タルムード、バイブル、コーランについて研究することを思い立った。
    旧約聖書はユダヤ教の聖書として、イスラエル民族の歴史を刻んで伝えられてきた。いかにして神の言葉を記録し、
    伝えるかという布教(情報活動)を行ったのだろうか。そして知識の形式化としての新約聖書の体系化。
    知識の形式化は、インドやギリシアの哲学に始まるが、記録アルゴリズムとして聖典には巧みに組み込まれている。
    どうしても、「知識・記録・情報」の歴史は、これらの聖典から再考する必要がある。
    手始めは、三大宗教の聖地、エルサレムを訪れることだった。   


マサダから死海を望む  ユダヤ人の抽象性を育む
マサダは海面下の死海(マイナス600m)から450mの高さにある要塞(アラム語)。紀元前25年にヘロデ王によって造られた。
紀元66年にユダヤ教原理主義集団(シカリイ派)がマサダに立て篭もって、ローマ帝国に反乱を起こす。
ほぼ3年間も耐え忍び、紀元73年にローマ軍によって征服された。960人は、自決したと ヨセフスの名著『ユダヤ戦記』は伝える。
現代のイスラエル軍の新兵は、マサダに連れてこられて、「マサダの誓い」を歌う。悲痛な存亡の叫びと思える。

小岸昭の名著は、パレスチナの荒野をこのようにいう。
かつて砂漠がそうであったように、彷徨えるユダヤ人に抽象性の能力を育むのに役立ったのだ。
は全の根源であり、全てであるにもかかわらず、なぜ迫害や追放といった「悪」がこの世に存在しつづけるのか、というユダヤ人の疑問に、それは答えようとするものだった。(途中略)だが、砂漠そのもののようなこの原空間の中にこそ、疎外の苦しみにさらされて彷徨う人間の真の姿があり、したがって救済を求めて動き出す人間の根源的な根拠もあるのではないか」
[小岸1997] 小岸昭,『離散するユダヤ人 : イスラエルへの旅から』, 岩波書店, 1997.

聖地エルサレムを望む ユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒は同一の神を信じる。
アブラハムには二人の息子がいた。正妻サラに子供が生まれなかったので、召使ハガルとの間にイシュマエルという子をもうける。しかし、その後正妻との間にイサクという子が生まれた結果、イシュマエルは砂漠の荒野に追い出されてしまう。
イサクはヘブライ人の祖となり、イシュマエルはアラブ人の祖となる。
アブラハム(イブラヒム)は、ユダヤ人とアラブ人の共通の祖であり、同じセム族に属する兄弟民族といえる。
神は、ある時アブラハムはその子を供え物として供えるように命ずる。
旧約聖書はイサクを供えたという。コーランはイシュマエルを供えたという。
兄弟は仲良くなってほしい。
エルサレムのゴルゴダの丘、イエス処刑跡には聖墳墓教会が建っている。これは全世界のキリスト教徒の聖地である。
ユダヤ教徒の聖地、嘆きの壁の上には、モハメッド昇天の岩とされる金色に輝くドーム(モスク)が建っている。これはイスラム教徒の聖地なのだ。

嘆きの壁    ディアスポラ(離散)
イスラエル国歌、ハティクバ(希望)には、次の詩がある。
「ユダヤの魂が脈打つ限りシオンに向かって、・・・自由の民となって、エルサレムに住むことである。」
紀元70年8月、ティトゥスが率いるローマ軍はエルサレムを攻略し神殿に火を放った。こうして第二神殿の破壊とともにユダヤ人はパレスチナから追放されて、
紀元135年の反乱を経て2000年のディアスポラ(離散)が始まった。言葉(ヘブライ語)と律法(タルムード)と最小限のものだけを携え離散する。
旧約聖書はユダヤ教の聖書として、イスラエル民族の歴史を伝えたものである。イスラエル民族の起源は、モーセに率いられてエジブトを脱出した出来事、出エジプト(エクソダス)にあるという。エクソダスの一団は荒れ野の旅を経て、パレスティナの農耕地に定着し、紀元前10紀にはダビデ王とソロモン王の王国として繁栄する。まもなくこの王国は北のイスラエルと南のユダとに分裂した。エジプトとアッシリアとパビロニアの圧迫を受けて、イスラエル王国は紀元前722年に、ユダ王国は紀元前586年に滅された。イスラエル民族は、バビロンにおける捕囚として連れ去られる。紀元前540年のペルシアによって解放されて、パレスチナに戻ることができ、エルサレムに神殿を再建する。現在の嘆きの壁(ソロモンの神殿跡)の場所である。その後のローマによる支配の時代にイエスは誕生した。ローマ支配からの解放者イエス、同時にユダヤ教を普遍化する救世主でもあった。ユビキタス(神は普遍的存在)とはラテン語であるが、このような普遍化(カトリシズム)と密接に関係するようだ。

死海文書   トーラー(モーゼ5書)
若い羊飼いが洞窟からヤギを出そうとして洞窟に石を投げ込んだところ、巻き物を収めていた陶器に当たった。
クムラン写本と呼ばれることもある。死海北西の要塞都市クムランの近くの11箇所の洞窟で発見された。この写本は、紀元前2世紀の中頃から紀元後1世紀にかけて書かれたもので、約800巻あった。その断片の30%はヘブライ語聖書であり、25%は、伝統的なユダヤ教の宗教文書であった。残りの約15%は、まだ判明していない。アラム語で書かれたものもあり、また、ギリシア語で書かれたものもあった。洞窟で発見された写本断片は、ユダヤ教徒とキリスト教にとって、歴史的な発見となった。
知識の記録、その形式化を伝えるものといえる。
忘れ去られた2000年前のヘブライ語が蘇った。記録情報を形式化した威力である。直接眼にした死海文書とトーラーから覗える仕組みは、「世界史のなかの情報システム」の研究にとって大いに刺激を与えてくれた。クムラン教団の隠者の洞窟ともいわれる。一切の世俗的なものを捨て去り、神との対話だけの修道生活を送った。第1洞窟の7つの巻物は、旧約聖書のイザヤ書のヘブライ語本文、教団規定、戦闘規定、ハバクク書、外典創世記、感謝の詩編であった。また出エジプト記などヘブライ語聖書、ミカ書などの聖書注解書などの文書の断片もあった。

クムラン教団
トーラー、タルムード、旧約聖書などの記録には、コンコルダンスやハイパーテキストという記録アルゴリズムが巧みに組み込まれている。
巻き物と陶器は、ライブラリのハードウェアであり、ヘブライ文字とギリシア文字による記述、聖書という形式化と体系化された記録はライブラリのソフトウェアであった。ライブラリアンはクムランの隠者であり、修行によって彼らの頭の中に暗黙知のハイパーテキストが写し取られた。このような要素から構成されたライブラリは、情報システムの原型といえる。隠者はやがて死ぬがライブラリを残すことは可能だ。
世界に離散したユダヤ人は、このライブラリを「トーラー」に凝縮したと思われる。ラビはトーラーとタルムードによって情報システムを復元した。キリスト教もイスラム教もこのような情報システムを真似たことになる。

古代ヘブライ語は、2000年に渡る離散中に忘れ去られていた。現代イスラエル語の語彙の中には、クムラン文書を参考にして復活させたものもある。このように記録情報が正確に保存されていたからだ。まさに、タイム・カプセル。それに比べると、CD-ROMやDVDなどの電子記録をタイム・カプセル化することは不可能だ。21世紀に生きるわたしたちは、2000年後の未来に対し、いかなるメディアで語ることができるだろか。ITやユビキタスと呼ぶ電子社会の未来は、実に虚しい。
サファド   ゴラン高原を望むセファルディの町 
ガリラヤの高原にサファドの町がある。そこには、セファルディ系のユダヤ人が多く住んでいる。
1492年、コロンブスがアメリカ大陸探検に旅立つ同じ年にアンダルース最後のイスラム王都グラナダが陥落する。
アンダルースは、三大宗教が融合し、「寛容の文化」が花開く世界であった。
現在のスペインのアンダルシアである。そこではムスリム、ユダヤ人、キリスト教徒は仲良く平和に暮らしていた。
イザベラ女王によるレコンキスタ(キリスト教徒国土回復)の結果、ユダヤ人は追放されて、モロッコやトルコなどの中近東に離散する。彼らはセファルディ(アンダルース系ユダヤ人)と呼ばれ、一部はオランダや西欧に行き、一部は祖先の地であるパレスチナに戻った。17世紀オランダの哲学者スピノザはセファルディであった。K. ポッパー、G.マーラー、フロイド、アイシュタインそしてV.ノイマンなどのユダヤ系偉人は、ボルガ川東岸のいたカザール人を起源とするアシュケナジムに属する。彼らはドイツ語とスラブ系言語をミックスしたイーデッシュ語を使う。
世界中のユダヤ人墓地では、クムラン文書と同じヘブライ文字が刻まれている。モロッコのタンジェールにも同じ形をした墓石を見た。
チェコのプラハやモラビアのユダヤ人町、トレビシェ(Trebic)にあるユダヤ人墓地はアシュケナジムによるものなので、暗く重苦しいものだった。右から左に向けて読むヘブライ文字、モーゼも使ったものだ。楔形文字やフィニキア文字の影響を受けたのだろう。アラビアやペルシア文字のような曲線の持つ柔らかさが感じられない。なんとなく厳しさ、怨念を刻み込むのに適するように思えた。
カバラ  ユダヤ神秘主義
カスティーリャ王国トレドのラビの子供であったヨセフ・カロは、ユダヤ人追放の結果、1498年にトルコに逃れた。
その後、聖地へ移住し、サファドに落ち着いた。ユダヤ神秘主義カバラの共同体に身を投じた。
同じセファルディのイサーク・ルリアによるユダヤ神秘主義(カバラ教義)は、
スペインからのユダヤ人の追放とその救済の中にひとつの深い宇宙的な意味を見出そうとするものであった。
「すべてのものの中に神性が宿り、またすべてのものが神性にみたされている時に、
なぜ宇宙の中にただ一か所だけ神とかかわりない場所が存在しているのだろうか。」([
小岸1997] p.142)
アラブのユダヤ人を「ミズラヒム」と呼ぶが、彼らの歌はアラブ音楽の旋律と全く同じであった。何千年もアラブ人と共に生活したのだら当然である。ミズラヒムのスーク(市場)を歩くと、昔エジプトで購入した歌姫、ウンム・クルスームの歌「インタ・ウムリ」が聞こえてきた。私は、セファルディとは別に「ミズラヒム」の存在があることを知った。イスラエルではユダヤ人同士の人種差別が大きな社会問題である。ミズラヒムやエチオピア出身の黒いユダヤ人は、白人のアシュケナジムから差別されている。ユダヤ人とは民族ではなく、ユダヤ教徒と呼ぶべきだろう。この旅を通じて、私は、このようなイスラエルが抱える問題の存在を理解すると同時に、自分の無知を嘆くことになった。
エイラット シナイ半島の入り口
現代のイスラエルは四国とほぼ同じ面積で、人口約600万人の小さな国である。イスラエルの国土の南北は約500キロ、東西は約150キロである。スキーが楽しめるのは北部のゴラン高原にあるヘルモン山である。最南端部のエイラット湾のコバルトブルーの紅海は実に美しい。早春でも泳ぐことができる。雪と夏が同時に体験できるのだ。隣町は、ヨルダン領のアカバであり、アラビアのローレンスによって第一次大戦中にオスマントルコから解放された。複雑な地形で、アカバの先はサウジアラビアになり、エイラットの南下にはエジプト領のシナイ半島が続く。モーゼのシナイ山(カタリーナ山)には、エイラットからエジプトに入国して、シナイ半島を南下する。
モーゼに率いられて出エジプト(エクソダス)を行い、紅海が裂けて徒歩でシナイ半島に脱出したという話はあまりにも有名である。

滞在中に、パレスチナ自治区のエリコにある刑務所がイスラエル軍の軍用ヘリと戦車によって急襲された。収監中のPFLP議長を拘束するためであった。PLOにしろハマスは、イスラエル軍とモサド(秘密機関)による暗殺を恐れている。最近の映画、S. スピルバーグ監督による『ミュンヘン』は、1972年のミュンヘン・オリンピックで起きたプラック・セプテンバーと呼ぶアラブテロ犠牲者に対するモサドの報復を描いている。凄まじい復讐の執念である。ユダヤ人の受難の歴史は、ホロコースト博物館に凝縮されていた。パレスチナが11世紀のアンダルシアのように「寛容の文化」が花開く平和な聖地になることを期待したい。
「今日は !」という「シャローム」(ヘブライ語)そして、「サラーム」(アラブ語)、どちらも同じセム語族である。世界の知識と記録の原理を生み出したという栄光の歴史を共有し、相互不信を超越して、両者の歴史的和解を願いたい。パレスチナに真の平和を !! 聖地万歳  

 

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