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吉岡隆山画伯が亡くなった。
2024年10月26日逝去 (享年81歳)
「富山県人」2021年6月号の表紙を飾る絵、題名は「立山 夏」とある。
昭和18年高岡市生まれ、高岡高、慶大経済学部卒。家業の書店経営のかたわら、南画院同人であった母、愛子さんの晩年に師事し、制作を始める。平成24年南画院賞受賞、27年同人へ推挙、28年南画院大賞を受賞。
本名は、「吉岡隆一郎」、2024年10月26日に逝去した。享年81歳。
立山・劔岳など郷土富山の立山連峰を愛した富山県人だった。
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追悼文
「富山湾の海の幸を満喫する」 見谷紘二
記憶が断片的でしかも記憶力自体も衰えてしまって、吉岡君との思い出が鮮明に浮かばない私にとっても、
あの立山でのキチ会古希合宿は忘れがたい記念行事でした。
快晴の青空をバックにした立山連峰が厳かに我々を迎え、見事に色付いた紅葉で我々の古希を祝ってくれました。
翌日のオプショナルツアーも富山湾の海の幸を満喫するお膳立てが組まれており、
富山在住の吉岡君がいたからこその充実したプランでした。
(弥陀ヶ原・ミクリガ池と立山・雄山を望む。吉岡の大好きな雄山。)
今般、吉岡、浅輪、島田ご夫妻のご協力で「富山湾の寒ブリとキトキト海鮮料理を食べに行こう会」が計画され、正に申し込み受付が開始された矢先に、当の吉岡君の突然の訃報に接することになってしまいました。
何という無情、無念!
もう四半世紀前に刊行された「美しい富山」に掲載された「夕照」(夕陽に照らされた白銀の立山と月)を眺めながら写真家としてのもう一人の吉岡君を偲んでいます。
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「立山への熱い思いを語っていた」 相川正汎
古希の合宿をやろうということになり、その前年2012年秋 トンベと吉岡と3人で立山山麓の調査行に行った。富山で待ち合わせし吉岡が事前に目星をつけた候補宿を3件位を見て回った。
きれい、貸し切りで、ファイヤーもできるということで 「愛花夢」 に決定し、その夜は宿の主人を交えて遅くまで飲んだ。 吉岡は北アルプス・立山への熱い思いを語っていた。
翌日は 紅葉の盛りの弥陀ヶ原、室堂を3人で歩いた。
(ペンション「愛花夢」の前で集合写真 吉岡は右端にいる。合宿後に氷見に行った。)
古希合宿は翌年2013年秋 35名が参加してにぎやかに行われた。
「愛花夢」は好評だった。
・・・あの時のトンベも吉岡も先に逝ってしまうとは・・
幻のプラン
大学3年の夏に吉岡と2人でリーダーを組み 「北アルプス・内蔵助平」 のプランをもつことになった。 鹿島槍に上がり 後立山を北に縦走、白馬から黒部の谷に降りて対岸の剣、立山まで。
(4年の最後の五色合宿にて)
今思えば 壮大な約2週間の山行計画だった。メンバーも決まり、準備会を進めていたが 直前の苗場合宿での事故で 急遽中止 「幻のプラン」となった。
毎年山の写真入りの年賀をもらっていた。 高岡と離れていたが 君の姿は僕の心に残っている。
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「県人会学生寮の映画」 斉藤 孝(カメ)
あれは入学して2年目になる。吉岡君は富山県人会の学徒寮に下宿していた。確か大森駅の近くで便利な場所だった。
その下宿には十数名の学生が生活していたと思う。富山県出身者で優秀な大学生だけが選ばれて許されるという名門寮だった。
吉岡君は高岡高校出身から現役で慶大経済に入学したので、当たり前に県人会学生寮に下宿できたわけである。
KWV入部してから2年目の春だった。吉岡君のことをカメは「越中」と呼んだ。吉岡君は、「ダラ」や「ツカエンチャ」など富山弁丸出しなのだ。カメは母が富山出身なので富山弁はよく理解できる。吉岡君は秀才であるが田舎者なのだ。カメは「越中」が好きになった。
大河原新太郎君の自宅は高輪にある。新ちゃんとカメは「越中」から誘いを受けた。 吉岡君「越中」は面白い映画があるから是非とも「県人会学生寮」に来いという。6月の蒸し暑い夜だった。
新ちゃんは青ざめた顔になった。カメはニタニタと薄笑いで誤魔化した。
モノクロの画質の悪い雨が降っているエロ映画だった。カットなしだが暗くて良く見えない。
半世紀前は映倫という規制もあっただろうが、下品なストーリーだった。吉岡君は下宿のリーダーのような存在だった。
あの真面目一徹な「越中」は旅芸人のような興行師なのか・・。
後に富山県で本屋とカフェーを兼ねるというメディア事業(文宛堂)で飛躍した吉岡君の先見性を物語っている。文宛堂は富山県だけでなく北陸地方で有名なチェーンである。あの興行師の息子は立派な事業家になっている。
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吉岡隆一郎君は、新太郎君の追悼文(2021年10月17日逝去)を書いてくれた。
「学部もクラスも一緒だった」 吉岡隆一郎
新ちゃんとは学部もクラスも一緒だった。本当に世話になった。
彼は本当に裕福で、俺は貧乏だった。本当はそんなに貧乏ではなかったのだが、彼が裕福すぎたのかもしれない。
同級生ではあるが彼は一年か二年東大を目指して浪人していたので、彼から見たら私は弟みたいなものだったのかもしれない。
私は何も知らないボンボンだった。
彼も見るからにボンボンだったので気が合ったのだろう。
本当に大切な友人だったのに。
同級会にもいかなかったし、
キチ会にもあまり参加できなかったし。
私より絶対長生きすると思ったのに、。
こせこせしないし、悩むこともあんまりなかったのではないかと思ったが。
もうこの年になれば我や先、彼や先とゆうことにはなっているが。
氷見のワインで乾杯をした10年以上前に品川の彼の家に行ったことがある。
品川プリンスホテルで会合がありパーティも終わり、ちょと時間ができたので電話をして彼の家に行ったことがある。
道は解っているつもりだったがなかなかたどり着けなかった。
彼は家の前で待っていてくれた。
そして高岡の隣町の氷見のワインで乾杯をした。
彼はわざわざ取り寄せているようだった。
奥さんとも楽しくお話ができた。
一番印象に残ってるのは猫だ。
彼の家の猫は飛び上がってドアの取っ手を手で開けるのだ。
さすが新ちゃんとこは猫まですごいと思った。
世話になったのに何のお返しもしなかった気がする。
残念だ。 ごめんね、新ちゃん。
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「おわら風の盆」 安藤彰邦
彼との現役時代の山行は特にあまり記憶にありませんが、むしろその後小生は第二の職場で富山出張の際に時々お会いしました。
時期は1999年(平成11年)〜2001年(平成13年)頃だったと思います。その都度彼に高岡市内の行きつけのお店でご馳走になり、本屋の経営がいかに難しいか等を伺いました。
以下にその際の思い出をふたつ述べさせて頂きます。
ある時に彼の経営する文宛堂書店の一つへ案内されてちょっと驚いた事は東京の書店では当時殆ど見かけない本屋内部にカフェが併設されており、 客が本を片手にコーヒーを飲んでいたものでした。彼の話では今後本の売買だけでは経営が難しいので、カフェやビデオレンタル等もやっているとの事でした。そのために単独のお店ではなく広いショッピングモール等へ出店しているとの事でした。
又確か2000年の9月に富山出張があった際には富山市内に泊まり、
丁度「おわら風の盆」に彼と正子夫人と3人で八尾町迄出かけました。
この時は夕方から臨時電車で八尾まで行き夜8時頃から11時頃まで祭りを
見学しました。
この祭りは毎年9月1日〜3日まで曜日に関係なく開催されています。まさに夏の終わりにふさわしい優雅な衣装に包まれた踊り子が
胡弓を奏でて町内を廻るものです。そのころは殆ど徹夜で踊って
いましたが我々は深夜臨時電車で帰宅したものです。
それにして彼は元気で立山に登り素晴らしい山岳写真を撮っていましたが急逝されて残念です。 ご冥福をお祈り申し上げます。
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「夜空のトランペット」 浅輪 正彦
来年2月に寒ブリとキトキト海鮮料理の旅で高岡に行く計画でした。君が推薦してくれた海鮮料理店で宴会するはずでした。
君の突然の訃報に接し言葉もありません。
60年前の浅貝三国山荘で満天の星空の元、白樺のベンチに座って、君はトランペット、私はギターで合奏した「夜空のトランペット」のメロディーが今も耳に残っています。 あの頃が懐かしい。 でも今はもういないのか。
安らかにお休みください。
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