KWV41年キチ会

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Photo3       亡くなった山友へ捧ぐ

3-1) 卒業25周年の記念         1991年

 

 

 

 

 

 

この写真は我々の卒業25周年の記念行事(慶應義塾全体の行事として)が品川のプリンスホテルで行われてそれに合わせてオバーが帰国したと思われます。各学科ごとに部屋が用意されていました。「キチ会」の2次会をサントリーのクラブでしたと思います。若かったですね。私はテニスに夢中の頃ですから真っ黒に日焼けしております。KOBUKI

 


3-2) 亡き友 ドシ(土志田実君)の想い出

 

早いものでドシが逝って三年と一ヶ月が過ぎようとしている。彼は浅野高校の出で 実家は横浜だったと聞いている。なんとなく シャレタ浜っ子の印象があり 長身で片手をズボンに入れ「イヨッ」と手を挙げて 今にも現れそうだ。

 

今でも覚えているのは  北海道での4年の夏合宿も終わり何人かで利尻島へ向った。色々と苦楽のあったワンダー生活の思い出に浸りながら船の甲板で海を眺め「KWV4年間も終わったな」とオレが言うと横にいたドシがタバコを吸いながら「モク吸って 語らずだ」と返した。コイツは出来なと感じたのを 今でも覚えている。

(寺島晴佳君  グゥシー)

 


3-3) 亡き友 ヌカリ(大林史一君) の想い出   

べトコンかまど

昭和408月、我々4年生は「三国山荘改良工事」に精をだしておりました。工事内容は、ストーブの新設、台所の改善工事、べトコンかまどの新設工事、便槽の防水作業等約70万円かけての大改良工事です。

ヌカリはべトコンかまどの新設工事の親方、補佐方はゴンちゃん他数名でした。かまど10基の設置は横並びのブロック積、木材組み立て片屋根の囲いこみ式です。一番の問題は不整地の旧かまどの場所に水平な新かまどをどの様な方法で設置する事が出来るかでした。水平器などはありません、そこでヌカリ親方は考えました。半透明のビニールホースを探し出し、中央に空気泡が来る様なホース水平器を作り見事にベトコンかまどを作り上げたのでした。就職先が島津製作所でした。(田中透君 トンベ)

 

笑えない冗談を飛ばす

現役時代に保健衛生を一緒にやり、山にも結構行ったが、むしろ卒業してからの方が深く付き合った。彼は島津、私は岩井で二人とも東京で寮暮し、よく銀座ヴィスタで落ち合っては山の話ばかりしていた。入社2年目(’67)と3年目(’68)の3月には現役の浅貝BHに連続参加、浅貝小屋や福島屋に泊まってスキーもやった。とにかく真面目で、笑えない冗談を飛ばすシャイないい奴だった。その後、私は九州、彼は豊橋に帰り、浮世絵役者絵の年賀状だけの付き合いとなってしまった。風の噂で引き継いだ家業で大変苦労していると耳にしたが声も掛けづらく、こちらも転勤続きで、再会のきっかけは見谷と組んでやった「キチ会30周年シラビソ合宿」だった。(Shimada、チビチョン)

 

30周年記念のシラビソ合宿

島津を辞めて、実家の生糸の製糸業に転じてからは事業の存続をかけた辛苦の連続、ワンゲルどころではない状況がづぅーっと続いた。円高と中国の低賃金に抗しながらの奮闘もついに清算を余儀なくされ、漸く気持ちの整理がついたころ、丁度卒業30周年記念のシラビソ合宿が企画された。島田と見谷は、そんな大林を何とかキチ会に引っ張り出そうと名古屋駅前で何回かの準備会を重ね、大林には絹織物の産地でお得意さんもいる飯田市での見学や昼食を担当してもらった。左の写真は30年ぶりの再会宴会で明るく振舞う大林。彼の案内で行った飯田妙琴公園の食事処で、昼食のマツタケを爪楊枝のように細く割いて、じゃんけんで大騒ぎの争奪戦を皆で演じたことを思い出す。長きに亘るキチ会での無沙汰を一気に解消した大林会心の笑顔だ。右は昼食後に見学した「つむぎやさん」のお庭での記念写真だ。大林復帰を喜んだのも束の間、一緒に山行を楽しむ前に、スキルス性胃がんに倒れ、不帰の客となってしまった。男の子3人の内一人は医師を志し、今は名古屋大学病院で消化器系の内科医を務めている。(見谷紘二君 ダチョー)

 

 


3-4) 亡き友 エータン(斉藤文昭君)の想い出

みどりの黒髪のミドリ

残念ながら、ミドリは、色男の記憶はありません。きわめて実直な、まじめな学生であったと認識しています。とても初心で、まともに女の子の顔も見れませんでした。懐かしい、清らかな思い出です。(翠川英夫君  ミドリ)

 

 

 

男らしい男  下着を貸し出す

エータン(斉藤文昭君)との思い出は、2年の夏合宿で、連日の雨で着替えの下着に不自由し、リーダーの指示で、1年生に手持ちの下着を貸し出すことになりました。その時、エータンは全部供出し、その後の山行は、冷たい思いをしました。エータンとミドリは、セーターを直に着て、しのぎました。帰京し、我が家で、ゆっくり風呂に入り、その時の様子を母に報告しました。母も、とても喜んでくれ、以来、我が家にも入りびたりになり、長い付き合いが始まりました。山には、横笛を持ち歩き、静かに楽しんでいました。男らしい男でした。(翠川英夫君  ミドリ)

 

 


3-5)  亡き友 オバー(阿部紀子)へのオマージュ

貴族の別荘   左端のマサボンの隣に亡きオバー(阿部紀子)も映っている。カメはオバーと気が合ったから彼女がサンフラン(SF)に いた頃もハンガリーに亡命(?)した頃にも会いに行った。オバーは ドナウ・ベント河沿いラーニファル村で貴族の別荘を購入して優雅に暮らしていた。 ドナウ河はウィーンからブラチスラバ(スロヴァキア共和国)を流れてハンガリーに入ると首都ブタペストの直前で流れを大きく左に蛇行する。それをドナウ・ベントと呼ぶ。その名所にあるラーニファル村は森に包まれた静かで綺麗な村だった。しかも温泉が湧いていた。

夢多き国際人だった。  サンフラン(SF)ではベンチャービジネスとして「ドルフィン・ツアー」と呼ぶ観光会社をR氏というパートナーと一緒に経営していた。自宅はロシアン・ヒルズと呼ぶ一等地にあった。1年後に会ったときは「桜ホール」と呼ぶ日本の金持ち子女留学生用ドミトリーを経営していた。そこはバークレーにあるスペイン風の屋敷を改築した素敵な建物だった。著名な英文学者阿部知二を父親とするお嬢さん育ちのオバー。とても経営才覚など持ち合わせているとは考えられない。アイルランド系パートナーR氏のビジネス・センスによるものだろう。

人生を十分に楽しんだ。 R氏はなかなか大胆でアメリカ人にしては珍しい左翼思想の持主で、実に個性的な人物だった。ある日、カメをサンフラン警察の支局につれて行き、そこで夜に開催されていたポリス達の組合集会を見物させてくれた。アメリカの警官に組合があることを初めて知った。

アメリカ大好きだった。 当時のオバーはアメリカ大好き一辺倒だった。ところが3年後に会うのはハンガリーである。あんなに大好きなアメリカを何故逃げ出したのか。その頃のオバーはアメリカ大嫌い人間になっていた。そして年下のハンガリー人をパートナーに選んでいた。I氏は1955年代ハンガリー動乱の折にオーストリアに亡命した若者だった。I氏は苦労してアメリカに渡りフロリダに住んでいた。ハンガリー語は他の西欧諸国の言語と違い、孤立的でアジア的なのでハンガリー人は英語が苦手なのである。I氏は結局アメリカ社会に溶け込めなく一刻も早く母国に帰還したかったのだ。オバーはI氏によって感化されアメリカ嫌いになったのだろうか。大きなコンテナ一台にアメリカの家財道具を詰め込み、サンフランからロッテルダムまで運んでもらい、ラーニファル村まで持ってきてもらったという。自家用車(ボルボ)は二人で運転して来た。ナンバープレートはカリフォニア番号のままだった。

ハンガリー産パプリカ。 1993年に 大河原新太郎君と カメは二人で ラーニファル村の彼女とI氏を訪問する機会があった。新太郎君はトカイ(白)とエゲイル(赤)ワインを飲むことが目的。バラトン湖につながるヘービス温泉湖でメダカと一緒に泳いだり、チロルまで脚を伸ばしたりして社会主義崩壊後のハンガリーを楽しんだ。ハンガリーはパプリカ王国である。約30種もの様々な味のパプリカが育てられている。グヤーシと呼ぶパプリカベースのスープは 鯉こくみたいな味で日本人の舌にピッタリである。新太郎君はパプリカの種を持ち帰った。松井田農園(後のアルスロンガ農園)は日本で初めて本格的にハンガリー産パプリカを植え付けた場所である。ごく最近までI氏はオバー亡きあとも新太郎君へ毎年のようにパプリカの種を送り続けてくれた。オバーの 魅力的な口調が聞こえてくるようだ。  Kame

アルスロンガ農園のパプリカ  ラーニファル村でごちそうになったパプリカのサラダが気に入って、栽培方法など聞いたところ、早速しらべてくれて、種を毎年、送っていただけるようになった。オバーが病に倒れたあとも、I氏が送ってくれて、これがアルスロンガ農園の主要製品になった。松井田に仲間が集まるきっかけを作ってくれたことになる。オバーはもっと事業を拡大して、松井田が日本のパプリカ生産拠点になることを願っていたかもしれないが、新しい野菜の半減期は3年くらいで、別の種類のパプリカが市場に氾濫するようになり、おととし、唯一、納入させてもらった自由が丘のキッチン・カントリーのメニューから松井田のパプリカが消えた。こんなわけでオバーのパプリカは今では憩いの里、アルスロンガ農園でしか食べることのできない貴重な野菜となっている。(シンタロー 大河原新太郎君)  クリックアルスロンガ農園

オバーの終焉の地、ブタペスト    オバーは川崎市生田の「春秋苑霊園」にご両親と一緒に眠っています。少し高台の眺めのいいところです。私の両親の墓とすぐ近くで、先日両方のお墓参りに行ってきました。今秋の喜寿の合宿の開催を報告しました。オバーの終焉の地、ブタペストは「ドナウの真珠」といわれる美しい町です。私が訪れたのは、2008年、わずか2日の滞在でした。松井田用にとパプリカの種をさがしましたが、街中ではみつかりません。彼女の住んでいたドナウベントにてやっと手に入れることができました。これも縁とオバーを偲びました。(マサボン 相川正汎君)

 


3-6) クマゴロー、クマ人間食を食す  

この写真は乗鞍合宿の時、乗鞍岳の剣ヶ峰に登って昼飯を食べている時の写真です。剣ヶ峰から下って、途中の食堂で一服している頃から雨が降り出し、当初計画の通り観光バス通りの途中にあるバス停まで、傘をさして下山したことを思い出されます。山は紅葉の真っ盛りでしたが、雨のため綺麗にはみえませんでした。

寒い中、バス停でバスを待ったことを覚えています。この山行プランのリーダーは今井さんでした。その他の印象深いエピソードはありません。新型コロナウイルスが日本に上陸し、いよいよは戦いがは始まりそうです。気合で撃退できます。気合です。お大事に。(白旗 弘道君 クマゴロー)

卒業40周年記念 乗鞍高原

 

 

 

 

 

 

 

タイチとダルマ そして姫ダルマの顔も見える。遠くにいるのは平木君ではないか。

 


 3-7)  新穂高  卒業10周年記念合宿   1991年9月16日

 

コブキの膝に乗り楽ちんだった。その日は快晴。前日の台風で荒れた西穂や笠が岳を想像もできない素晴らしい山行となった。Kame

 

 

 

 

 

 

 子ダルマ 大ダルマ 姫ダルマ

 

子ダルマ11、姫?、大ダルマ48才、荒天の安房峠を越えて。皆さんに可愛いがって頂きました。(柏木俊雄君 ダルマ)

 

 

                       

西穂の先には前穂、そしてジャンダルムがそびえ立つ。こんな危険な岩山が近くにあるがみなさん西穂で引き返す。美女同伴の酔っぱらい登山だった。

 

 

 

 

 

   美女に囲まれてグゥシーとチュンは果報者

 

左下の美人はアタエチャンではないかと勘違い。ナタリー・ウッドのよう。間違えたようで御免。美女に囲まれてグゥシーは果報者。 Kame

 

 

 

 

 

 「ダイヤモンド・ロック事件」  

1991年9且16日、西穂山荘までのトレッキング、2基のロープウエイを乗り継ぎ展望台から歩き始めた。

登山初心者の奥様方にはコブキ姉様が歩き方の指導をしながら登った。途中何度か休憩し、疲れが見え始めた頃昼食の大休止となった。

昼食を摂りしばらく休んだ後、リーダーのそろそろ出発しますとの声に反応してあの事件は起こった。一人の女性が叫んだ!「もう歩かない、ダイヤモンド・・・、岩・・・」よく聞き取れなかったが、何事かと一斉にその女性を見た我がパーティーの人達の顔が、瞬時に笑顔に変わった。これが後の世に言う「ダイヤモンド・ロック事件」である。たまたまそこに居合わせた「お巡りさん」も女性を見て苦笑い。当日は晴れて視界もきき、コブキ姉様の登山指導やダイヤモンド事件での笑顔もあり、記憶に残る楽しいトレッキングとなった。

中村公保君 チュン

                            


3-8)  暑気払い 若手社員のみなさん  1974年 

ヌカリ(大林史一君)とエータン(斉藤文昭君)も映っている。ヌカリは髭つらで山賊。エータンの微笑みは代議士として貫禄。最前列の三美女は韓国整形されたのですか。伝説の美女です。Kame

 

 

 

 

 

 


3-9)  卒業10周年 1976年6月19日   数寄屋橋ニュートーキョー 

 

数寄屋橋ニユートーキョの名を聞くたびに思い出すのは吉之助君のこと。私も心から後悔している。トイレで大勢の人々が集まって大騒ぎしていた。そこには若き青年が床に倒れていた。人の話によるとその青年は便器横にあるパーテッションに頭をぶつけてひっくり返ったそうだ。「のうしんとう」によるもので軽傷である。私も野次馬のようにながめていた。「それにしても吉之助君の帰りが遅い」。どこのトイレに行ったのか。次の瞬間驚いた。トイレの床に倒れていたのは吉之助君だった。彼はあの時の後遺症を今でも引きずっている。これで若年痴呆症になったのだ。もう少し早くトイレで気が付けばと悔やまれる。申し訳ない。Kame

右手を高く上げ合図をしているのは炭竃君。それにしてもフサフサと豊かなカツラを頭に着けている。コブキの前に肩を組む二人。安藤君とダルマではないか。彼等もピッタリと決めたカツラを付け化けている。

 

 


3-10) 卒業20周年  浅貝合宿  1986年9月13日〜15日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「早く終わらないかなぁ!」超若手に完全無視されたか?〜保護者が苦笑い。

この子らも、この頃の我らの歳を遙かに超え隔世の感あり。子育て中の40半ば、小屋に家族を連れて来ての自慢話。思えばまだ大人しく着いて来てくれた時代だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

今では親よりも巨体、しかも憎たらしい存在になりました。親の介護を宜しくお願い。

 


3-11)  20周年記念 銀座 植むら  1986年4月

 

 

 

 

 

 

 

『卒業20周年記念パーティには「植むら」32名、「jiji」36名の多数が参加。関西から小山・久米吉、中部から見谷・井上・松永・安藤・後藤など各氏が馳せ参じ、珍しい処では飯島メグ嬢・高木おまわりさんも卒業以来、他には浦和勤務の佐藤公、ドサ回り帰りの上野、起業中の阿部トシアキ、ブラジル帰りの中村チュン、引越最中に抜け出てきた島田チビ、工学博士の白籏クマなどなど、20年の歳月を経てみんな実年、日本の中枢を担う働き盛りです。


二次会は住吉ママ(S36)の「jiji」の貸切。追いかけて駆け付けたのは中嶋常幸じゃなくて横山タイチ、大阪から飛んできた古平・守田・今井、定員15名の店が溢れる盛況。「店で天突きは止めて〜」のママの悲鳴。三次会はお馴染み「ブリック」余談だがあの「ヴィスタ」は閉店とのこと。しつっこく四次会は古平L.のもと六本木の縄張りまで出張って3時過ぎまでやったそうな。付き合いきれません。幹事のアタエ・オカル・コブキ・相川ご苦労さま!』(コブキ発行「キチ会通信」から抜粋)

 

 


3-12)  忘年会 銀座  1987年12月26日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よく飲んでよく食べた。マサボンの横に座ると馬鹿食いの恐怖を感じた。馬力により何でも残さず食べていた。この忘年会の店の名前は忘れた。中央テーブルは徳利と盃、食べ残しで乱れている。

 

 

 


3-13)   一世を風靡した 銀座倶楽部 ‘05 .4.12 

『<とあるお店開店の宣伝メール>
銀座・並木通8丁目に「銀座倶楽部」というお店が開店しました。何か松井田農園の野菜・パン・ジャム・ハムなども食せる様な予定で、年金生活者クラスが夜な夜な出張っても、イヤ月2回程は出張れそうです。そこで、4/11(月)調査行として、秤・鈴木P・寺島G・浅輪B・浅輪A・田中T・佐川D・柏木D・大河原S・上野・島田の9名が覗いてみた。落着いた雰囲気のいい店だったが、グーシーのキリマン登頂の話題で店は大騒ぎ、ほかの客は誰も寄りつかなかった。恐ろしいことに明日もキチ会からの予約があるそう。今井・相川M・久米K・久米Y・高木・斉藤Kらの面々。場所は銀座並木通8丁目「ブリック」寄り右斜め対面「幸佑ビル7F」 7Fは右手「銀座倶楽部」だけ。看板、店名札は一切ありません。
<「銀座倶楽部」の由来> 「銀座倶楽部」は佐川ドラ氏がレンジ登録済みの店名です。実は陰の資本家はドラ氏なのです。(要は旦那の夢がついに実現したのです。)ですから我らキチ会の年金仲間からも、幾らかお金は落とさせるのです。勝負なのです!「銀座倶楽部」は最低でも2年間は持たせなくてはなりません。某洋酒メーカー古平専務曰く「絶対儲からないし甘い道楽者の店だ。」との確固たるお墨付きです。食べ物はドラ支配人企画メニューで有ります。そのモルモットなのです。 ‘05 .4.12 トンベ回状
 

 


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