テレ偲ぶ会    「大河原新太郎君への追悼」

 

       2021年10月17日逝去  享年79歳

 

       


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(2-1)

  新太郎君へのオマージュ  (尊敬を込めて述べる追悼)
 

                      斉藤 孝

  
荒くれ男が男に惚れた。これがカメの本心なのだ。

新ちゃんの喜ぶ顔、その瞬間だけでカメは嬉しくなった。
新ちゃんから誉めてもらう笑い顔、それがカメにとり生きがいになった。

  カメは新ちゃんに心底惚れていた。

カメは新ちゃんをひたすら愛し続けてきたといえる。
片思いだったかもしれない。それを50数年の長き間続けてきた。

アルスロンガ農園のためではない。カメ・ガーデンのためでもない。ましてやカメ自身のためでもない。全て新ちゃんに尽すためだった。新ちゃんがいなくなった今、カメは腰が抜けたように空虚な気持ちになっている。もはやアルスロンガ農園などに何の未練も残っていない。この良き思い出を大切に守り続け、カメは残り人生を過ごそうと決めた。

新ちゃんは徳川15代将軍のような文化人だった。「最後のガラパゴス将軍」や「最後のアナログ殿様」かもしれない。上州松井田の長者さま名門一族として生まれた。

貴公子だった。まるで英王室の若き頃のチャールズ殿下のようなノーブルなお顔。
大きな福耳が特徴といえる。性格は、やや穏健。
金権世界の銀行員には全くむかないボンボンだった。

山野草・山林が大好きだった。雑草の見分け方も上手く、それを徹底的に抜き取ることに執着した。あの広大なお屋敷と田畑をなんとか一人で整備し運営していこうと日々奮闘していた。

貸地や貸家、そして山林など地主としての役割。まるで領地を預かる代官様のような日常生活だった。これを一人でやっていたから大変苦労したことだろう。

山歩きは苦手だった。バランスが悪いのか下り道で必ずひっくりかえった。
ゲテモノ食いのくせに腹をよく壊した。散らかすことには気に留めない性格。
何処に何を置いたのかすぐ忘れた。何事にもおおらかな泰仁だった。

楽しみをどんな些細な事からも見つけ出す特殊な才能をもっていた。
器用なのか不器用なのか分からないが変てこな工作を繰り返し喜んでいた。
一心不乱に密造酒造りにも励んだ。

ゲテモノ料理が得意だった。自分で腹を壊すだけなら許されるが他人まで災いを及ぼした。
下痢や吐き気しながらカメと大笑いした。食いしん坊なのだが食通ではなかった。
好き嫌いなく何でも我武者羅に食べていた。

     みんなに食を振る舞うことが大好きだった。

グラッパやビールの密造に熱中した。ワインは醗酵ガスで瓶が破裂、葡萄絞りのフィルターに新聞紙を使った結果、印刷インクのしみ込んだタール臭いワインを飲まされた。魚の内臓を取り出してパテの瓶詰めを作り出した。どれもこれも痛風にとり最悪の食材なのだ。
カメが、「これは美味い」と言った時、
                 新ちゃんの嬉しそうな顔

酵母菌にも熱中した。納豆作りやヨーグルト作り、味噌も試みた。混ぜ合わされた酵母菌によって納豆味のヨーグルトが完成した。
自作の冷却パイプを作り純度の高いマールを徹夜で密造していた。
               まるで「錬金術師」のようで後ろ姿は不気味だった。

新ちゃんは、「絶滅危惧種」のような貴重なアナログ人間といえるだろう。
スマホの指操作でイライラが増し病状を悪化させたようで悔やまれる。
しかし日本のひ弱なデジタル未来を見なくてよかったと思う。

カメもまもなく天国にいる新ちゃんに会いに行く。天女に囲まれてにこやかに過ごしているだろう。私の席は二人のうら若き天女に挟まれた特等席を手配願いたい。

  
 新太郎君のご冥福を、心からお祈り申し上げる。


(2-2)

     珍味のイカの黒作り      斉藤栄子

新太郎さんはカメの一番の親友で、私たちが結婚する前からよく話題にものぼり、我が家の娘たちが小さいころから家族ぐるみのお付き合いがずーっと続いていました。同居していた義理の両親達も大河原家の皆が来てくれるとなると、大喜びでよく一緒にご馳走を用意したものでした。新太郎さんはいつもなんでもよく召し上がり、とくに珍味のイカの黒作りは、義父の好物でもあったため、義母は嬉しそうに手作りして準備していました。新太郎さんは釣りもお好きで、以前よく片瀬の漁港から船に乗り、カメ達と出かけていました。大量のサバやアジなど、山ほど釣ってきて、私はびっくり。結局彼が全部きれいにさばいて下さり、新鮮なお魚料理をたっぷりいただくことができました。我が家の切れない包丁で魚をさばくのはとても大変な作業だったと思います。次回からは彼は釣りの時には御愛用の包丁持参でした。

     ご冥福を、心からお祈り申し上げます。
 


     人生を思いっきり楽しむ人                      久米行子

新ちゃんが亡くなったとの知らせが入りました時は本当にびっくりいたしました。
最近は農園仕事に励んでいらして縁遠い存在になっておりました。
その昔、卒業したばかりの頃、免許取り立てだったと思います。
カメやダチョー、新ちゃんと良くつるんで遊んでいたことなど
懐かしく思い出しました。
高崎まで美味しいカレー屋さんがあるとかで車をぶっ飛ばして出かけたりしました。

その頃に松井田のお屋敷も訪ねて表通りから裏通りまで大河原家の土地だと聞いて驚きした。
お座敷には父上の書物が山積みされていたことなどを覚えております。
人生を思いっきり楽しむ人でしたね。
今では、笑顔だけを懐かしく思い出します。
奥様がどんなにかお寂しくお思いかと

                  心よりご冥福を思うばかりです。


   来てくれるだけでウレシイよ    浅輪昭子

新ちゃんとは学生時代に何度かプランでご一緒しました。何時も笑顔はずーっと一緒でしたねその頃珍しいチーズを持ってきたり、釣り竿、ウクレレを抱えてましたが、歌声は聞いたことありません。しばらくは吉会で会う以外はあまり会うことがありませんでした。お互いに家族ができ、また日本の経済界を担う企業戦士として皆さんご活躍でした。アルスロンガ農園で皆んなを受け入れてくれました。どんな人も「来てくれるだけでウレシイよ」と歓迎されうれしくなったものです。

当時としては、珍しいハーブや野菜を新ちゃんが一人で育てていました。新しい事に好奇心満々で、種から苗を育てました。とても研究熱心!
時には皆んなを驚かすようなものを作り、うれしそうに「いいでしょう」と笑顔をみせます。
また旅先で食べた物を再現させ「美味しいでしょう」とこれまた笑顔です。
唯一の欠点はお片付けがニガテ!
最期には開き直ってましたね。しかしそれはきれい好きの啓子さんが補って余りあるものでした。

     ご冥福を、心からお祈り申し上げます。


    しんちゃんに会えなくなるなんて、本当に残念

                       佐川直子

                    
 近くに引っ越したのでこれから、いろいろもっとお話し伺ったり、一緒にお散歩
して近所を案内してもらったり楽しい時を過ごせただろうに。
私たち去年引っ越しして、家に来てもらったのが今年の7月26日、その前に夫が何回かお電話で話したり引っ越しそばを持って行ったりしてたけど、なかなかタイミングが合わなくて来てくれた時は少し痩せてたけれど、いつものしんちゃんだった。
松井田でゴルフやったとか、顔色も良く腕なんか日焼けして元気そうだった。時々喉が詰まるようすだったが、高輪の話もしてくれた。今度みんなと食事をしようと言っていて、8、9月は連絡もなく突然の訃報でびっくりした。もっと近所付き合いしたかった。

   合掌
 


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これはWebサイトで開催される「大河原新太郎君」を偲ぶ会です。オンラインによる進行形の会合ですから何時でも修正・更新が可能です。気楽に出席されて「新太郎君」と過ごされた懐かしい日々をお話しください。短いコメントやお名前だけでも結構です。   

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