テレ偲ぶ会    「大河原新太郎君への追悼」

 

       2021年10月17日逝去  享年79歳

 

       


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(3-1)

         これまでの人生で最大の衝撃  …   嗚呼

                                                                         木勇樹

   8月20日に小学校時代からの親友を失い、僅か2カ月後にふるさと松井田の畏友新太郎君に別れを告げることになるとは。   無情、不条理の極みとはこういうことか。
この歳になると「いつでも会える」は「永遠に会えなくなる」と同義であることを思い知らされました。 痛恨

器用で人望があり、加えて抜群の行動力の持ち主。どれひとつとっても足もとにも及ばない畏友新太郎君。

ふるさとを同じうすること、家同士ご縁もあったこともあり、随分と長いお付き合いをさせて頂きました。

アルスロンガ農園は、新太郎君の真骨頂と言っていいでしょう。私も話の輪に加えて頂き、ご相伴に預かり、至福の時を過ごさせて頂きました。

話したいことは泉の如く湧き出てきます。
私もいずれ新太郎君の居るところに召されます。その時の時間は無限でしょうから、アルスロンガワインを酌み交わしながら、今語り尽くせぬ話に花を咲かせたいと思います。

     新太郎君本当にお疲れさまでした。ゆっくりおやすみください。

                           合掌


(3-2)             

                ゴルフをまた一緒にしよう

                                                                                    今井昌義

 小布施の帰りに松井田に寄った時、土産のモンブランをうまいと言ってペロッと食べて、栗おこわ飯もお代わりしたではないですか、ゴルフをまた一緒にしようと言ったではないですか、十分元気を取り戻していると思いました。僅か2ヶ月前の8月のお盆の時でした。逝ってしまって、もう会えないというのが今だに信じられない。

     紙パックワイン

 学生時代は山に一緒に行ったのはあまりないけど数年前、相川さん、カメさん、それに私とで東北の朝日岳に行きましたね、下の山小屋から強雨の中予定の避難小屋までやっとの思いでたどり着いたとき、貴方はザックの中から3L入りの紙パックワインを出しましたね、ふだん山に行くときは軽量化を考えている私には驚きでしたよ、でもこういう山での楽しみ方があるのだということを教えて頂きました。

    二人は競って仏検に挑戦

 旅行をずいぶんご一緒しましたね。大岡旅行社による数度のフランスワイン研修旅行、ベトナム、オーストラリアゴルフ旅行、スペインでの巡礼、イギリス、などなど。いろいろのことが思い出されます。誘われて2012/1に両夫婦で、「JAL直行便で行くフランス7日間」という格安なツアーで、モンサンミッシェルとパリに行きましたね。とても楽しかったです。モンサンミッシェルでは名物のオムレツと一緒に注文したロブスターが支払いの時目が飛び出るほどの料金だったこと(フランス語のメニューが十分理解出来なかったからです)や、パリでカフェの「マゴ」で朝食をと、モーニングセットを注文したら従業員に怪訝な顔をされ、出てきたパンの量が半端でなかったこと、(これも語学力のなさによる失敗でした)など懐かしく思い出されます。帰国してから二人は競って仏検に挑戦し始めましたね。今もラジオ放送を聞いています、癖をつけてくれたことに感謝しています。
 

  ハタの大名釣り、ヒラメ釣り

 釣りが好きでしたね。川も海も。海釣りをずいぶんご一緒しました。
大島でのイサキ釣り、小笠原でのハタの大名釣り、ヒラメ釣り。
ヒラメは釣りに行ったけど釣れたことがないと聞いたので私の師匠に頼んで鹿島や銚子に11月頃何度か行きました。釣れると嬉しそうに釣果は全て松井田のアルスロンガ農園合宿に持ち込み刺身、昆布締めなどにさばいて皆に喜んでもらいましたね。
毎年の恒例になり、皆の歓ぶ度合いが減り、当たり前に思われてきたので今年あたりはやめようかと冗談に2人で話していたのですが、今年は本当に行けなくなってしまいましたね。悲しい限りです。

   一緒に遊んでいただき
 アルスロンガ農園に入れていただいて16年あまり、いつも楽しく過ごさせていただきながらゴルフ、釣り、旅行、山行、等々と一緒に遊んでいただき本当にありがとうございました。

           安らかにお休みください。  


(3-3)

                「寂しい」                                                                                                   

                   羽毛田信吾

 ほんの10年ばかりのお付き合いなのに、大河原新太郎さん、貴方と会えないことが、こんなにも切なく、こんなにも寂しいとは。
アルスロンガ農園の仲間に加えていただけたこと。大河原さんという知己を得たことが、私の老後をバラ色に変えた。
今、去らぬ悲しみの中で、私の晩年の日々にとって大河原さんの存在がどんなに大きかったか、改めてしみじみと思いやる。

   「遠足に行く児童のようね」

と妻に冷やかされながらの松井田通い。それも、私の幼稚な提案を面白がって受け止めて下さった新太郎さんの笑顔があればこそだった。
この次は、イシモチノすり身で自家製の焼き抜き蒲鉾を作るという案を披露したいと秘かに目論んでいたのだが、それも虚しくなってしまった。
もう詮なき泣き言を重ねるのは止そう。

               大河原新太郎さん、安らかにお眠りください。

                                                                            さようなら。 


(3-4)

   中国や韓国、台湾、米国からも

                小林和彦

 2018年まで、東京大学農学生命科学研究科の教授を務めました。それまでの約5年ほどの間にたびたび、大河原新太郎さまの松井田のお宅へ、学生ともども「合宿」と称して泊めていただき、一緒に料理をし食事をしつつ、親しくお話をさせていただきました。ワインの法制に詳しい高橋梯二さまに、私どもの研究科の非常勤講師をお願いしたことが、大河原様とつながる結果になったのです。

  不思議な夢のような経験

 私どもの学生は日本人だけでなく、中国や韓国、台湾、米国からも来ており、彼ら彼女らにとって、大河原様のご実家での宿泊は、不思議な夢のような経験だったでしょう。私自身も、マールが蒸留されてすこしずつ溜まってくるのを、大河原様とともに飽きずにながめていたのを、今でも思い出します。

 私はつい先日、高橋梯二さまと連絡を取りたい用件があり、大河原様ならば高橋様の近況をご存じかと思ってウェブを検索して、初めて大河原様が亡くなられていたのを知り、呆然としたところです。あのように明るく、元気で楽しく、自然と芸術を愛しておられた方が亡くなるとは。アルスロンガに続く語句の意味を、心の中で何度もなぞらずにはいられませんでした。

  大河原様のように美しい波

 確かに、大河原様ご自身は既にこの世を去られましたが、大河原様が多くの人たちの心に残した波のようなものは、その人たちの生涯にわたって生き続けることでしょう。私自身、すでに70歳となりましたので、せいぜいあと10年余りの命でしょう。大河原様のように美しい波を、人々の心に残せるとは思えませんが、せめて自分の心に恥じることのないよう、考え続けていきたいと改めて思いました。

斉藤様には、ご自身のホームページで大河原様について書いてくださっていたおかげで、多くのことを知ることができました。心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。

 


(3-5)

    新ちゃんの思いを知る

                                                                            浅輪正彦

 新ちゃんからの最後のメッセージ受取りました。改めて新ちゃんの思いを知ることが出来ましが、涙がこぼれて読み進むのに苦労しました。

    22年間の時が経ち
私が島田、秤両名と初めて松井田を訪ねたのが1999年春です。その時は白パプリカ植付けや竹炭作りをしました。それから22年間の時が経ちました。その間にハウスのビニール張替え、田植え、収穫ゼロの蕎麦撒き、近郊の山へトレッキング、ことことあんずジャム、木曽から移植したいちごジャム、燻製タクワンイブリガッコ、ワイン作りと思いつくことを拡大し無鉄砲に突き進んで来ました。その都度エピソードがあって、楽しい日々を過ごさせていただきました。が、あっという間でした。

    竹細工作り
新ちゃんが亡くなって1週間後のことですが、NPO法人手賀沼トラスト遠藤織太郎会長が亡くなりました。農学者で手賀沼の湖畔で自然と共生、持続可能な無農薬農法活動をしていました。稲作の実践指導をして頂きました。そこで竹細工作りに出会いました。20年経ちました。
退職後の第2の人生の多くを松井田と手賀沼で過ごさせていただきました。

   「オー素晴らしい」
手賀沼で習得した竹細工の技術で作った作品を松井田に持参すると、新ちゃんは「オー素晴らしい」と声を出して感心してくれた。その声を聞きたくて、竹細工の技術習得に我孫子に通い、作品を作っては松井田に持参する事を繰り返していました。ありがたいことに松井田では材料の竹が無限に手に入りました。毎月通う松井田と我孫子は竹細工で繋がっていたのですが、時を同じくして私にとって大切な二人を失いました。

メッセージにも書いてありますが、どなたも私が先に行くと思っていたのに。あれから日も経って、やっと落ち着いて考えることが出来るようになりました。200名の会員となった手賀沼トラストでは毎月の竹教室を続けて、お世話になった恩返しをしたいと考えています。

   松井田でお世話になった恩返しを如何にするか考えています。


(3-6)

                 新ちゃんと松井田       

                    島田 利英

 

          「とてもじゃないが一人じゃ手が回らないよ!」
 松井田に初めて訪れたのは、‘99年3月末でした。前から遊びに来いよ!と誘われていた事もあり、名古屋から身内の結婚式に上京した帰り、品川から新ちゃんの車に乗って初めて松井田に向かいました。浅輪さんもその夜到着、2泊して松井田をどう維持するかを3人で話しました。

 当時、新ちゃんは’96リタイアされ、一人であの広い松井田の面倒を見ていました。年に何回か山菜採りや芋煮会を催してワンダーの同期が来る程度だったそうです。私は’98/6、浅輪さんは’99/2 リタイアし、これからやる事を模索中でした。
訪れた上の畑のビニールハウスに大きなポット100個以上を並べたパプリカの世話と里芋がメインで、下の畑にはコールラビやフェンネル・アーティチョークなど西洋野菜や珍しい香菜類が雑草と競い合って茂って、「とてもじゃないが一人じゃ手が回らないよ!」と嘆いていました。

    「来てくれるだけで嬉しい!」    「労働・風呂・酒盛り懇親」
 そこで浅輪さんと「不在地主化した松井田の庄屋さんお助け隊」を結成したらどうだろうか? 浅輪さんに幹事長になって貰い「労働・風呂・酒盛り懇親」の骨子を固め、従来のお客様的な芋煮会から脱却させて、毎月定例としてリタイア予備軍の同期に呼び掛け、現在に至る松井田合宿がスタートしました。新ちゃんは「来てくれるだけで嬉しい!」と口癖の返事で、賛同しました。ただ私は如何せん名古屋から松井田は遠く、高速でも7時間・下道で9時間掛かります。2000/4から木曽に中継点を設けましたが、往復すると名古屋を一週間留守にします。それでも’99年から2016年まで18年間で90回ほど通い続けました。いろんな想い出が詰まっています。

     いろんな想い出が詰まっている
*アンズジャム作り(‘03)、猪解体(’04)、辛味噌作り(‘08)、餅つき(‘08)、いぶりがっこ作り(‘09)ピザ石窯作り(‘03)、竹炭窯作り(‘03)、薪ストーブ導入(‘05)、耕運機導入(‘06)、稲作開始(‘06)、不動寺ブドウ畑開墾(07)、天上ブドウ畑(’10)、新畑開墾(’11)、カメガーデン開設(’15)、*生ハム(‘03)、ピザ焼(‘03)、岩牡蠣(’10)、炎の調理人のヒラメ(’13)、ヒラメカルバッチョ(’14)、*ワイン作り:ブドウ植付け(‘07)、フランスツア(‘08/’09)、大岡講習(‘09)、初ワイン試飲(’12)*やよひリース作り教室(‘06)、ふさ子草木染め教室(‘07)、

     かんぽの湯・恵みの湯・峠の湯・妙義の湯     
*登望会参加(‘08)、みなで会参加(‘09)、菊池父娘参加(‘09)、高木神主神事(‘10)、上毛新聞取材(‘10)、羽毛田さん参加(’15)、蛍狩り(峠の湯・吉井)、風呂(かんぽの湯・恵みの湯・峠の湯・妙義の湯)*朝の散歩(補陀寺/金剛寺(‘09)、金比羅山の桜・松井田城・高梨子G)
*鼻曲山(’01)、妙義山お中道巡り(’01)、貫前神社(‘03/’11)、安政の遠足(‘04)、鹿岳(’04)、甘楽町探訪(’08/’14)、碓氷製糸所見学(‘08)、ジョイフル本田(’08’/09)、五料ひな祭り(‘09)、松井田ひな祭り露店参加(‘09)、玉村豊雄ワイナリー(’08/’10)、パプリカディナー(自由が丘キッチンカントリー’06/銀座トカイ’08)、奥利根ワイナリー(’10)、築地魚市場(‘12)、浅輪ツア小笠原(‘14)、*玉突き事故(’10)、東日本大震災(‘11)、大雪被害(’14)、
     
     あの満面の笑み
 2016年02月を最後に松井田から遠ざかってしまいました。体力的な衰えもあって、松井田と木曽の両方の労働が重荷になっており、また、膝・腰・肩など蝶番がきしみ始めて、松井田までの運転が遠くておぼ拙くなりました。初期の新ちゃんとの約束もほぼ果たせたし、維持するメンバーも増えたことから、木曽に専念しながら松井田を見守ってきました。新ちゃんのあの満面の笑みを想い浮かべながら〜。

             
 有難う 新ちゃん さようなら!

是非とも見て下さい。懐かしい、懐かしい、そして若い、若い、新ちゃんと過ごしたアルスロンガ農園の日々。新太郎君、ありがとうございました。

  


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