テレ偲ぶ会    「大河原新太郎君への追悼」

 

       2021年10月17日逝去  享年79歳

 

       


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(4-1)

                 ダッチオーブンを使った独特な料理

                                                                               安藤彰邦

                                                                         

1. 現役時代(1962〜1966、4年間)

彼とのお付き合いはKWV入部の昭和37年(1962年)から始まりました。
トレーニングで日吉の校舎の隅でうさぎ跳びやマラソンで苦労したものでした。

彼とは都立高校出身者同士で同じ経済学部だったので親しくなりました。なお卒業後も同じような銀行勤務でした。残念ながら日吉や三田の授業で会った事はほとんどなかったと思います。お互いに勉強はしなかったかもしれません。
彼の高輪の家にはよく押しかけておばさんにお世話になりました。改めて御礼申し上げます。

山は合宿以外にはあまり同行しませんでしたが、スキーや旅行はよく行きました。
特に4年のスキー合宿の後に一式担いでニセコへ出かけた時はニセコアンヌプリのふもとのバス停から3時間以上掛かって雪道を登って山小屋へたどり着いた事がありました。小生の母親のコネで旧国鉄山の家で2泊3日位の食事代が免除された事がありました。
他にも札幌付近スキー場でシールを使った山スキーも楽しみました。その時の彼は体力抜群でした。

2. 卒業後(1966〜2021 55年間)
 
本当はこの間が長いのですが、ごく一部のエピソードを記録させて頂きます。

彼と啓子さんが小生が当時駐在していたサンノゼ(カリフォルニア州)へ1991年に来訪されました。その時はツアーの日程を変えて我が家へ一泊して頂きました。
その時はサンフランシスコ、シリコンバレー、スタンフォード大学等を案内し、又ゴルフもやりました。日本から色々なお土産を持って来て頂き彼の気配りに感謝したものでした。

小生の帰国後は友人の宇佐美の別荘をベースにカワハギ、イサキ等の海釣りをやりました。
カワハギ釣りの時に彼が築地でエサの生アサリを入手してくれました。みんなでアサリのカラを
剥ぐのに苦労しましたが彼の本物志向の気質に敬意を感じました。

そのあとはフランス旅行で彼の運転技術に驚き、又パリでハラチョンさんとはぐれましたが、通りかかった郵便配達の人に道を教えてもらい無事に戻れた事等がありました。

松井田の冬にはダッチオーブン等を使った独特な料理を朝4時頃から起きて作って皆さんにふるまってくれました。時にはいわゆるゲテモノもありましたが小生は殆どの料理に挑戦したものでした。松井田では小生の色々なチョンボを彼がカバーしてくれた事に感謝しております。

彼からの最後のメッセージはどんなに力を振り絞って描いたかと思うと涙がこぼれました。

                      ご冥福をお祈りいたします。
 


(4-2)

             一杯やりながら過ぎ去った日々を語りませんか

                                                                                      猪俣博康

 

 大河原さんとは、ワンゲル現役の時はプラン等でご一緒する機会がなく、ほとんど存じ上げていませんでした。お近づきのきっかけは、慶応創立150周年の記念ワンデリングの時でした。
綱島から三田までの最後の区間を41年卒の代が担当した時に私も日吉から参加させていただきました。
 

       是非、来てよとお誘い
 小雨模様でしたが、道中、会話ができる程度の雨で、松井田の合宿の話や、ワイン作りに挑戦している話や、いろいろな話題を聞かせていただきました。今まで41年卒の方とはそれほど話をしたことはなく楽しいワンデリングになりました。そんな会話の中で、大河原さんから、今度、薪ストーブを設置したので冬でも寒いおもいをしなくて過ごせる。是非、来てよとお誘いを受けました。


     力作業も待っていました
 三田に到着し、打ち上げの後、我が代43年卒の集りをしました。いくつかのテーブルに分かれて座りました。私のテーブルには、岩田、品川、三浦、小池等が座りました。その時に、大河原さんの松井田でワインつくりを始めているらしいという話をしました。
その場で、我々もやってみよう。場所は岩田が幾つか候補地を提供できるということで、簡単に決めてしまいました。
そこから松井田合宿に参加することが始まりました。先ず、ブドウの苗の購入方法、苗を植える穴の掘り方、その道具、剪定方法など一から指導してもらいました。
しかし、合宿に参加させてもらうと、ブドウだけでなく、ジャガ芋、里芋、長芋、トマト、ネギ、などなど色々なものを植えていることに驚かされました。そして合宿に参加されている皆様が嬉々として取り組んでいることにも驚きました。
また、ストーブ用の薪の切り出し、運搬、竹の伐採、筍掘り、草刈りなど、今まで経験したことのない力作業も待っていました。
 

      おもてなしを大切に
 非力な私は大した戦力にはなりませんでしたが、大河原さんから来てくれるだけで嬉しいんだよと歓迎の言葉をいただきました。後輩の私などにもそうだったように、来客に接する態度をみていると、大河原さんはおもてなしを大切にされる方だと感じていました。
そのようなことで、いつしか、私も常連メンバーの仲間入りをさせてもらうことになりました。

   家内も松井田合宿で

 また、家内も松井田合宿での農作業や皆様との語らいが大変気に入り時間の許す限り参加させていただきました。人生の後半、通常では考えられない貴重な時間をいただきました。このような環境を提供して頂いた大河原さんには大変感謝しております。ありがとうございました。
もう少し、大河原さんと楽しい時間を過ごせたらよかったのにとの思いがつのります。しかし、そのうち、私も仲間入りをさせてもらうことでしょう。その時にはまた、一杯やりながら過ぎ去った日々を語りませんか。

         ご冥福を、心からお祈り申し上げます。
 


(4-3)

           「新ちゃんとパプリカ」    相川正汎

  松井田にお世話になって 20年近くになる。新ちゃんは年数回参加するという 私の勝手を許してくれて いつも温かく迎えてくれた。初めの頃は パプリカの栽培が主作業で 大きな半円形のビニールハウスを建てていた。皆で食べたグヤーシュは おいしかった。

パプリカ栽培は 卒業30年(1996)頃に 新ちゃんとカメがオバアの病気見舞いに ブダペストを訪問し タネを持ち帰ったことに始まる。私も2008年東欧旅行でブダペストに寄る機会があり、松井田の手助けになれないかとパプリカのタネを求めて奔走したことがある。現地ガイドには「タネを買ったことはない」と言われ、市場にも売っていない。困っていると 郊外の観光をしている間に ツアーバスの運転手が近くの農場から購入してくれた。 そこはオバアの住んでいた辺りと後に聞いた。彼女のアシストがあったのだろう。


       これぞ本場の味

新ちゃんはパプリカを箱詰めし、ハンガリー大使館やハンガリー料理店に出荷していた。大きさや形は不揃いながら、客先からは「これぞ本場の味」と喜ばれていると 満足気だった。銀座にあったハンガリーレストラン 「トカイ」で 皆で楽しく食事をしたのも 今ではなつかしい。

                ご冥福を、心からお祈り申し上げます。


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(4-4)

               「ぼく 大河原です。一年のとき FCで・・・」

                       遊佐 恒

                
 150周年事業でKWVが中津市からのリレー行進の最終日も終盤に入り、三田のゴールまで あと僅かという時 ぼくの後ろから声をかけられた、

   「遊佐さんですね、ご無沙汰してます。」
 「ぼく 大河原です。一年のとき FCで・・・」という。
 「いま ぼくのふるさと・松井田で 同期と農作業をしてます。」

「そうか、いいことしているな。ぼくは奥多摩で 林業とか炭焼きをしているよ。この前は わさび田をつくり苗を植えたよ。」

などと話した。 それから数年、ハラチョンを通して 声がかかった。芋づる式に真壁ダンナ、須永オニがなだれ込んだ。   

 「あんたら どこに泊まっているのかい。」 

 新畑からの帰り道かの有名(?)な「柿の木坂中腹のとある家の前でそこの家の いかにも 品のよいお婆ちゃんに呼び止められた。

 「大河原さんのところ」「そうかい あそこの家は たいしたものなんだ。そこの上手にある神社にある銅像は 知っているかい。ご当主のおじいちゃんにあたる方で当時村長さん、善政をしいたたので それを顕彰するため村民が建てたものさ。ご当主のお母さんは それは美しい方だった。そんなこと知らんのかい。」

 当家の 成り立ちについては ごくその断片を垣間きいてはいたが 町の発展に大いに貢献されたことを いち老婦人から知らされた。

          新ちゃん流献立
 新ちゃんは 酔うと 早寝で そのせいか 夜中3時ごろ 起きだしては 何かをしていた。新ちゃん流献立の おそらく仕込みだったんだろう。 ぼくは しばしば 起きだしては 覗き込んだり ついでに(これが狙いなのだが)一杯仕込んだり。だから ぼくは夜中に起きて 新ちゃんが台所にいないときは じつに拍子抜けだった。      つづく


(4-5)

              サンチャゴ巡礼路を楽しく歩いたね 

                   上野俊英


   私は若いときからの夢フランスからスペインへの巡礼の道をいつか歩きたいと思っていましたが、松井田アルスロンガー農園でパブリカの苗を畑に植え付けている時、

    新ちゃんから巡礼の道一緒に行かない?

との話がありこれに飛びつき、最高に楽しい旅を新ちゃん、啓子さんにさせてもらいました。

フランス人の道【フランス人が多く歩く、フランス,ピュイ〜スペイン、サンチャゴデコンポステラ】
イギリス人の道【スペイン、フェロル〜サンチャゴデコンポステラ】
ポルトガル人の道【ポルトガル、オプト〜サンチャゴデコンポステラ】

    杖とクレデンシャル【巡礼手帳】

 これらの3つの魅力的な道,合計2,200kmぐらいを4年間延べ130日ぐらいをかけ歩き回りました。ビール、ワインを飲みピンチョスをつまみ,新ちゃんに教えてもらった珍しく,美味しい
食べ物、トルテージャ、ナバホス、カメノテ、オッパイチーズ,メンブリージョなどを食べ世界各国の人々と語り人生で最高に楽しい旅を新ちゃん、啓子さんと一緒に楽しみました。
10キロほどのザックを背負いそれにホタテ貝の貝殻をつけ、杖とクレデンシャル【巡礼手帳】を持ち1日20〜25kmを歩きます。泊まりはクレデンシャルを持っていることが条件でアルベルグと呼ばれる公営の宿に泊まります。2段ベッド宿泊料は5ユーロぐらいで、到着順に泊まれる。男女同室プライバシーはないが巡礼という同じ目的で世界各国よりやってきているので仲間意識が強く、気分が和らぎ居心地のいい宿でした。

             ワインが1本ついている
 我々が毎日どのように歩いたか当時に日記を振り返ってみますと5月14日 Burgos〜Hornillos del Camino 23km 朝6:00出発まだ暗い、しかし我々の前方には巡礼者のヘッドランプがチラチラと見える。 我々も各自ヘッドランプをつけ街灯の光に照らされたブルゴスのゴッシク様式のサンタマリア大聖堂を背にスタート。

朝食は2〜3時間したらどこかでと思っていたが・・・店は全くないので、道ばたのベンチに座り、我々が常備しているフランスパン、蜂蜜、サラミ、水で朝食。
今日の目的地Hornillos del Caminoのアルベルグのベッド数が少なく到着が遅くなると宿泊が出来ない事を知っていたので、黙々と歩く。

新ちゃんが大変苦しそうなので休憩しようと言っても新ちゃんは休むともう歩けなくなると言い歩き続け12頃到着。

アルベルグは13時にオープンするがもう22個のザックが並んでいる,我々は23〜25番目    ベッドが確保できるかどうか不安だったが,なんとか確保。昼は近くのレストランで同宿のオーストリア人、ブラジル人2人づれと一緒にビール、楽しい昼食。アルベルグに帰り、シャワー、洗濯。夕食は教会近くのレストランで,まずビール次いで巡礼者メニューを選んだ。これはメインを選び、これにワインが1本ついている、この1本が新ちゃんも私もお気に入りで明日の歩きを少し心配しながら毎日楽しみました。このように楽しい旅をしてきましたが

  新ちゃんは次は
     スペイン ピレネーへ
     ポルトガル リスボン〜オプトへ
   


    日本 熊野古道へ
 と言っていましたね。もう一緒に行けないね新ちゃん。
残念だねーまた一緒に行きたかったよあのピレネーへ。
新ちゃんからの最後の手紙に巡礼の事が書いてありました。どんな気持ちで書いたかと思うとたまりません、無情です,残念です。私にとって新ちゃんは最高の友でした。

    お世話になりました。ありがとうございました。さようなら。
         ご冥福を心からお祈り申し上げます。


(4-6)             学部もクラスも一緒だった

                                                        吉岡隆一郎

 

 しんちゃんとは学部もクラスも一緒だった。本当に世話になった。

彼は本当に裕福で、俺は貧乏だった。

本当はそんなに貧乏ではなかったのだが、彼が裕福すぎたのかもしれない。

同級生ではあるが彼は一年か二年東大を目指して浪人していたので、

彼から見たら私は弟みたいなものだったのかもしれない。

私は何も知らないボンボンだった。

彼も見るからにボンボンだったので気が合ったのだろう。

本当に大切な友人だったのに。

同級会にもいかなかったし、

きち会にもあまり参加できなかったし。

私より絶対長生きすると思ったのに、。

こせこせしないし、悩むこともあんまりなかったのではないかと思ったが。

もうこの年になれば我や先、彼や先とゆうことにはなっているが。

 

   氷見のワインで乾杯をした

 10年以上前に品川の彼の家に行ったことがある。

品川プリンスホテルで会合がありパーティも終わり、

ちょと時間ができたので電話をして彼の家に行ったことがある。

道は解っているつもりだったがなかなかたどり着けなかった。

彼は家の前で待っていてくれた。

そして高岡の隣町の氷見のワインで乾杯をした。

彼はわざわざ取り寄せているようだった。

奥さんとも楽しくお話ができた。

 一番印象に残ってるのは猫だ。

彼の家の猫は飛び上がってドアの取っ手を手で開けるのだ。

さすがしんちゃんとこは猫まですごいと思った。

 世話になったのに何のお返しもしなかった気がする。

残念だ。

     ごめんね、しんちゃん。

 


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  「テレ偲ぶ会」について
これはWebサイトで開催される「大河原新太郎君」を偲ぶ会です。オンラインによる進行形の会合ですから何時でも修正・更新が可能です。気楽に出席されて「新太郎君」と過ごされた懐かしい日々をお話しください。短いコメントやお名前だけでも結構です。   

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