テレ偲ぶ会 「大河原新太郎君への追悼」
2021年10月17日逝去 享年79歳
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兄新太郎の妹、 長岡淑子です。
葬儀にいらしていただいた方達お一人お一人全てのお名前は記憶しておりませんが、なにとぞ私からの感謝の念をみなさまにお伝え下されば幸いです。
みなさまとも親しくさせていただき、色々と楽しい事をご一緒でき心から感謝いたします。 みなさまからの多くの追悼も、ありがたく胸がつまりました。
私の知らない兄もいましたが、だらしない兄の動線は脱ぎ捨てた靴下などでわかったこと、また学校に行く前に川で魚を釣って、おばちゃんに焼いてもらって小さなお魚を食べ嬉しそうだった変わらない兄の事を思い出しました。
(写真1) (写真2)
三代目に初めて生まれた男の子なので、皆に大事にされ体に悪いと思われる事は退けられ、家の中でお行儀よく反抗もせず、しょっちゅう熱や鼻血を出して休んでいました。その姿を私は羨ましく思っていました。
(写真1) 兄は母親に抱かれています。裏のお稲荷さんの前に東屋がありその前で写しました。
(写真2) 兄が一歳頃の姿です。
私は街のあらゆるところに入り浸りお金は持たされなくとも買い食いも経験してました。
街の人が家の人に言ってはいけないと口止めされ新ちゃんも、淑子ちゃんみたいにしないから弱いんだよなどと言われてました。
(写真3)
(写真3) 父がその頃、うさぎをたくさん飼っていました。白茶グレー耳のたれたのアンゴラなど可愛かったです。その後、鶏にもハマってました。レグホン 、プリマス、コーチン、アイランド、チャボを思い出します。
(写真4) 蔵の前で兄はアイスキャンデーをかんでいます。台所の前で黄色の連翹がきれいでした。
私が生まれてすぐ、母が結核で5年も療養をしていたので可哀想と思われたので、私はわがまま一杯でした。その代わり祖父や親戚に兄は期待をかけられ不自由だったかもしれません。
でも、私は亡くなるまで一度も意地悪をされた思いもなく、いつも保護者でした。とても寂しくて残念で悔しい思いがいたしておりますが、両親と共になって、啓子ちゃん一家や私を見守ってくれているのではと思い、元気に過ごそうと思いました。
(写真4)
(写真5) 兄は祖父のそばにくっついてました。 祖父は母をそれはそれは可愛がっていたのか、病気中は 私達のことを不憫に思い絵に書いて送っていました。
(写真5)
(写真6) 父と裏の川に降りるところで蝶やトンボも多かった! 父はトンボや蝶や虫に詳し人でした。
(写真6)
(写真7) 母の留守中親戚も多くよく集まりがありました。
(写真7)
(写真8) 夏休み啓子ちゃんが来て碓氷ダムで飯盒炊さんをした時です。
啓子ちゃんと結婚できたことは兄にとって本当に幸せなことでした。お父様は兄が理想とするような方でお酒とともに色々学ばせていただけたのではないでしょうか!
我が家はお茶しか出さない家でした。私も主人にお茶とお菓子の変更を求められました!
今、私はきれいなコッブとお酒を用意できます。
兄は松井田にこれからも以前の様に、みなさまが集まって下さることを願っていることと思います。どうぞご無理のない限りお続け下さいますようにと思っております。
(写真8)
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「テレ偲ぶ会」について
これはWebサイトで開催される「大河原新太郎君」を偲ぶ会です。オンラインによる進行形の会合ですから何時でも修正・更新が可能です。気楽に出席されて「新太郎君」と過ごされた懐かしい日々をお話しください。短いコメントやお名前だけでも結構です。
「新太郎君の嬉しいそうな顔」を思い浮かべてください。投稿は下記のメールアドレスにお願いします。
saitotac@muse.ocn.ne.jp