KWV41年キチ会

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5-1)  志賀高原から岩菅山  1964年11月6日〜8日

上野を夜行で発ち、志賀高原から横手山を経て岩菅避難小屋に向かう。寒気厳しく夜雪が舞う。一夜で銀世界、明けて快晴の展望を眺めながら稜線を笠法師から白砂川沿いの秘湯ランプの温泉宿「和山仁成館」へ下る。今週は早慶戦、勝てば優勝で気もそぞろ。

 

 

 

 

勝った!夕方帰京し優勝祝賀の銀座に行く前に、皇居の芝生でテントを張ろうとして皇宮警察に怒られ、キスリング担いで銀座を2〜3軒ハシゴ。みなへべれけで何処に行ったか、どなたが払ったか、誰も知らない。 酔った勢いで田端の藍原アイちゃんちに全員で転がり込み、また痛飲。全員が大二日酔いで昼まで爆睡。昼飯をよばれて解散した。若気の至りのヒトコマでした。

(T.ST.Shimada、チビチョン)  2020年2月2日

 

 


5-2)  前穂に登り、梓川沿いの温泉宿    1970年 


前穂に登り、梓川沿いの温泉宿で宿泊。
露天温泉で泳ぎ、陛下が渓谷向こうの上高地行きバスに向かい放尿。さすが昭和陛下。

陛下は五色の露天風呂でも同じような行為におよんでおり、周囲のブーイングにもひるむことなく、わかったわかったとしりぞけるなどそのういういしいお姿からは想像できないほど成長なさいました。
この写真は、岳沢でテントを張った時の写真でしょうか、夜中に水が出ると騒がれてたたき起こされた。Okawara

新太郎君(Okawara)は現在、松井田アルスロンガ農園の御領主です。下記で近況報告。

アルスロンガ農園 http://saitotac.jp/sub7.html

ブログ アルスロンガ農園2019年回顧禄

 


5-3)  カメのアイデンティティー


本名は大学卒業までは「亀谷孝」でしたが、1967年に母親の再婚先の名前である「斉藤孝」に改名しました。その後2002年になり顔にも髭を付け人相までも改造しました。変わらないのはカメという愛称だけですが、多くの先輩諸氏から未だ私の正体が明らかにされていません。容貌が加齢も加わり激変したことにもよります。
自分は一体何者だったのか。そんなカメのアイデンティティーを探るというが今回の小舎番の目的でした。うら若き乙女が「自分探し」にでも出かけたような清々しい時間を雪山で過ごせれば素晴らしいと思いました。雪の浅貝は50年ぶりですから何もかもが懐かしい。

(写真)スキーを楽しむ(1964年)

ぼっとん便所
新築された小舎は一代目とは変わっていましたが、乾燥室だけは玄関脇にあり変わっていないと感じました。すのこの上に寝袋を乗せ寒さを耐え、スキーの秘密練習に熱中したことがありました。水洗ウォッシユレットのトイレに座り思い出したことは、その昔の「ぼっとん便所」と汲み取りのWC のことです。雪道を肥桶をさげ天秤棒を用いて運搬しました。数回滑りましたが溢すことなく雪道には黄金のラインだけが続いていました。「自分探し」の目的は、雪見酒と懐かしの山旅の歌を大声で吠えるという50数年前と変わらない結果に終わりました。これこそがカメのアイデンティティーなのではと納得できた小舎番でした。  

 

詳しくは、カメのHomePageをご覧ください。

 

 

 


5-4)  金子一義君とカメ

 

金子一義君がKWVキチ会のメンバーであることを知らない仲間も多い。そもそも彼が何故ワンダラーなのか。金子君を有名にしたのは国会議員になったからだろう。国会議員ではエータン(斉藤文昭君)のことはよく知っている。エータンはKWVキチ会仲間と山歩きを共にした。

金子君は自民党所属衆議院議員だった。選挙区は岐阜県高山地区。金子君の父親も国会議員。金子君は大臣にもなった。国会で答弁を行った時、それをテレビで見たことがある。面白かったことは、テレビ中継で金子君が議員席で退屈そうに何やらノートに落書き絵を描いていた。これが大臣としてあるまじき行為としてメディアで問題になった。金子君は髪の毛も豊かで顔は歌舞伎役者のようであった。残念ながら大臣としてはあまり実績を残していない。この写真は金子君が珍しくKWVキチ会に出席した時のもの。カメといかにも親し気に抱き合い握手している。


実は金子君とカメとは中学が同窓なのである。1955年、カメは富山から世田谷区の松沢中学に転校した。カメはそれまで5年間、富山市で母親の実家に預けられていた。1950年に新潟市で父親が亡くなり、母親が単身働く必要があったからだ。

金子君は父親が岐阜高山選出の国会議員であったこともあり、世田谷区赤堤に別宅があった。その関係で金子君は松沢中学に入学する。ところで松沢中学の同窓会会長に船曳孝彦さんが就任されたこともある。あのKWV先輩のドテさんだ。ドテさんは名古屋の藤田学園保健衛生大学の学長もされた。

さて、カメと金子君は3年間同じクラスに属した。そんなに親しい仲でもなかったがグループ(写真の二列目右端が金子君下の前列中央にカメ)は一緒だった。面白いことにこの仲良しグループの一人に川原君という秀才がいた。カメも金子君もひ弱な鈍才であったが川原君は違って文武両道。その川原君(写真の二列目左無帽 )と2013年になり中央大学で70歳の定年を迎えた。不思議な縁で46年を経て川原君とカメは同じ大学に勤務したのである。K大学に入り、金子君がKWVに属し、そこで二人が対面するという奇遇。金子君は引退して息子が高山地区の選挙地盤を継いでいる。たった一枚の写真にも物語がある。 Kame
 

 

 

 


 

5-5)  ヒマラヤ戦友会  エベレスト街道  2010年11月

 

カラパタール隊は連日深い青空の下、崇高な山々を仰ぎ、高度順応も順調にこなして、快晴無風の丘の上から真近にエベレストを眺めることができた。シャンボチェ隊は天候不順によりルクラへのフライトをヘリに替え、現地食ベースのトレックとなったが、日頃の仕事の疲れも吹き飛ばして、パノラマホテルにあがってきた。ここで2隊感激の合流となった。カラパタール隊の山中日数は14日に及ぶ長丁場となり、後半はバテ気味だったが、こんなに長い間一緒に山で生活することは現役時代にも無かった。気心の知れたワンダーの仲間で、ヒマラヤの雪山を眺め、談笑し、一緒に歩けるとは何と素晴らしいことであろうか。「人生は再現のないドラマ」といわれるが、またとない経験の日々だったと思う。キチ会は今年2011年に卒業45周年を迎える。入部して顔をあわせてから50年、仲間の年輪を感じられるトレッキングだった。 隊長マサボン(相川正汎君)

 

卒業してから45周年記念を兼ねる旅でしから、老人の登山です。エベレストに登るわけではなく、その麓の山道をトレッキングするわけで、誰でも行ける安全な山道です。高地に住むチベット人やシェルパ族にとって普段の生活の道ですから、多くの村々が点在し、素敵なホテルやロッジもあります。子供たちは学校に行き、人々はラマ教に帰依する信仰深い穏やかな生活をおくっています。カトマンズなどの低地に住むネワール人やインド系の人々のようなヒンズー教やイスラム教とは違い、日本人にも馴染めるチベット仏教(ラマ教)です。さらに安心できるのは、彼らの顔は日本人とそっくりのモンゴロイドだからでしょうか。Kame

 

  詳しくは右をクリック    ●『エベレスト街道トレッキング』 世界最高峰を展望する 

 

 

毎年、恒例となっているコブキ女将の陣頭指揮の下で豪華な手料理の数々を楽しみ、ヒマラヤの荘厳な峰々を懐かしみ、エベレスト街道で苦楽を共にした旧き友と歓談してきました。こんな宴会をよくもまあ10年も長きに渡り続けてきました。ささやかな伝統の喜び。

 

 過去の『ヒマラヤ戦友会』の10年間のアーカイブを見る。

 

 

 


 

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