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  裏田和夫君の逝去   2023年9月26日

   「ヒゲオコゼ」がこの世から消え去った。

      残念無念である。

「ヒゲオコゼ」は裏田和夫君に付けたニックネーム。名付け親はカメである。

オコゼは、独特で恐ろしげな顔した魚であるが、何となくイメージがオコゼに似ていると思った。 ヒゲはないが顔中ヒゲの剃り跡のように黒々と濃いのである。見つめると小顔で可愛らしくイタリア人のような優しい風貌。
オコゼだけでは物足りないので、ヒゲを加えて「ヒゲオコゼ」と呼んだ。

          

  (写真1) 穏やかな顔であるがバカ真面目な性格で怒るとこわい。卑猥な話は嫌った。

 

  北里水族館
北里図書館は北里水族館とも呼ばれていた。半地下にオフィスがあった。
北里水族館には出目金やエンゼルフィッシュ、グッピー、イシダイ、小判サメなど魚類からビーバー、トドやシャチなどの海獣まで様々な水生動物が飼育されていた。 その中でボスはオットセイであり、看板魚類は「ヒゲオコゼ」だった。カメはスッポンだけで脇役。
津田先生はオットセイと命名され、丸々とした体形で愛嬌ある甲高い声で、"ウラタクン~~!!"と探されていた。オットセイは、みなさまから大変尊敬されていた。オットセイとヒゲオコゼのコンビは親子関係といえた。

(写真2)
北里図書館のみなさまは、上州法師温泉へ一泊バス旅行に行った。中央にオットセイの津田先生、「ヒゲオコゼ」は津田先生の頭に手を伸ばし無礼にもタバコを付けようとしている。オットセイの頭髪がなくなってしまった。 この写真は、北里水族館の黄金時代を見事に表している。中央の写真は、長嶋勝利君とカメと一緒。東芝コンピュータでプログラミング中の姿である。徹夜仕事であったが楽しかった。
1966年(昭和41年)に卒業できた。日吉の卒業式で、左から中島紘一君、カメの母親、長澤先生、児玉民行君そして「ヒゲオコゼ」の横顔である。カメの家にもよく遊びに来て、母は喜んでくれた。

北里水族館の黄金時代は1965年(昭和40年)頃といえるだろう。
ベトナム戦争の激化や中国では文化大革命も始まった。書籍『白い巨塔』や映画『サウンド・オブ・ミュージック』が人気を得ていた。
三田キャンパスでは昭和40年1月から「学費値上げ反対紛争」が起こった。そして塾生によって塾監局が占拠された事件もあった。 中島紘一君はJLSのスト先導者だったが、「ヒゲオコゼ」は世間を熟知したようなクールな態度だった。偉そうに、いつもスト破りのコトバを述べていた。

歌舞伎町で家庭教師
「ヒゲオコゼ」の学生服姿など見たことがなかった。いつも背広にネクタイ姿で、生意気な若きサラリーマンの仕草を真似た。新宿歌舞伎町でアルバイトをしているという。 家庭教師の仕事が忙しく塾生ストに割く無駄な時間はない。バイト先は新宿歌舞伎町にある中華料理屋である。その店の子女の家庭教師であると自慢していた。 何を教えていたのか分からないが、歓楽街、歌舞伎町の中華料理の宴では大そうな御馳走に預かった。「ヒゲオコゼ」は店主から非常に信頼された家庭教師だったようだ。

(写真3)
上の写真は、働き盛りの「ヒゲオコゼ」の顔。尊敬する大好きな津田先生と楽しく談話していた。津田先生のホテルのトップ階レストラン好きは有名。そこでお飲みになるジントニックは大好物。
中央の写真は、「ヒゲオコゼ」の学生時代のバイト先の歌舞伎町の中華料理屋での宴会。高級中華で大変うまかった。下のモノクロ写真は、お茶目な「ヒゲオコゼ」、そしてJLSの淑女に取り囲まれた幸福な姿。

 

図書館学の選択
「ヒゲオコゼ」にとり図書館学は必須の専門であった。兄上は東大教授で図書館学の重鎮、裏田武夫先生の影響によるものだ。10歳以上も年の離れた立派な学者でまるで親子のような関係だった。
裏田家の出身は雪国新潟の直江津と聞いている。「ヒゲオコゼ」の故郷の思い出話は印象に残っている。糸魚川の砂浜で海水浴を楽しんだ時に、どざえもん(水死体)に遭遇したという。 その気持ち悪い話を平然と語るのである。話題はいつも暗かったがなかなか迫力ある口調だった。

慈恵会医大の医学情報センター
「ヒゲオコゼ」は図書館学の業績を慈恵会医科大学で立派に成し遂げた。みずからのコトバで「ヒゲオコゼ」は誇らしげに語ってくれた。

津田先生にわがままを言って、1973年8月に慶応から慈恵会医大に移りました。移ってまもなく大学は図書館職員2名を教員に変更し、 上司が助教授、私が講師になりました。日本の医学図書館員で初めての専任教員です。上司が他大学へ転出後、私が講師のまま図書館の責任者となり、しばらくして助教授に昇格しました。第20回日本医学会総会を慈恵会医大が担当し1979年に開催されたときに、「医学文献の 探しかた」というベストセラー本を刊行し、晴海の総会展示場では当時の日本ではまだ夢物語であったオンライン検索システム、JOIS、SDC、 BRS を介して MEDLINE などの検索を実験的に披露したことが良い思い出となっています。大学では図書館、標本館、医学写真室、大学史料室という教育・研究関連の情報部門の統合を計画し、1984年に医学情報センターという新しい組織をつくりました。

その昔、日吉にある「ヒゲオコゼ」の下宿で二人で語り合った自分たちの将来。 「ヒゲオコゼ」は津田先生のようになるという。カメは藤川先生のようになってみよう。二人は自分たちの未来の夢を大胆に描いた。「ヒゲオコゼ」はカメとの絆をいつまでも大切にしてくれた。人情味ある「裏田節」を想い出す。"カメさん、そんなに焦ってどうするの。カメはノロノロと行けよ"

病のデパート
「ヒゲオコゼ」は病を得意になって語ることが好きだった。病を実体験しているから迫力があった。 17歳のときに手術した心房中核欠損症の後遺症により強い動悸や不整脈があり、また腰部脊柱管狭窄症からくる腰部の痛みと左脚の痺れにひどく悩まされていた。 ちょっと動いただけで動悸が激しくなり、呼吸が苦しくなる。まるで 100m を全力で走ったあとのようだ。食欲もなく、体重が50Kgを割った。メールは、いつも病のことばかりだった。

脚が痛くて歩けない、電車に乗れない、タクシーはバカ高い。幸いこのアパートに個人タクシーをやっている人がいて、ずいぶん助かっている。
弱音を吐くが、なかなかシブトク、闘病人生も楽しんでいた。病の天才。

(写真4)
同窓会の記念集合写真では、中央に着席した。まるで年老いた恩師のように威厳があった。名簿作りや会場の選定など林経子さんと仲良く段取りしてくれた。 浜松町貿易センタービルの33階にある見晴らしの素晴らしいレストランだった。津田先生から差し入れされた高級シャンパンの味は忘れられない。この2013年開催のJLS同窓会を最後にして公式なクラス会は無くなった。残念だ。

最後の御奉公となった同窓会

「ヒゲオコゼ」は幹事役として張り切っていた。2013年4月13日に浜松町の東京會舘レストランでJLS同窓会が開催された。 集合写真では、まるで恩師のように中央に座り込み威厳があった。熟女達に囲まれ幸福の絶好調だった。 「ヒゲオコゼ」は自分の歩んできた道を誇らしげに、そしてめずらしく元気よくこんな話をしてくれた。

医学情報サービスの追及にはどうしても複数の教員が欲しくて、かなり苦労しましたが3名の教員枠を大学は認めてくれました。あとは枠づくりよりはサービスの質を高めることに懸命な日々でした。途中で日本医学図書館協会の責任者を8年間勤めましたし、1985年には第5回国際医学図書館会議を東京で開催し、プログラム委員長を無事にやり終えました。また、東南アジア ASEAN 各国との文献・出版活動を 推進する国家プロジェクトの委員、委員長もこれまた長く勤めました。

カメには病の話よりも、こんな「ヒゲオコゼ」の自慢話が好きだった。

カメもまもなく天国にいる「ヒゲオコゼ」に会いに行く。天女に囲まれてにこやかに過ごしているだろう。私の席は二人のうら若き天女に挟まれた特等席を手配願いたい。藤川先生好みのM・モンローも大歓迎。

裏田和夫君のご冥福を、心からお祈り申し上げる。


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