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世界の旅 
  アルバニア・コソボ・ボスニアヘルツェゴビナ
 

 「火薬庫バルカン」     2023年11月30日

 

サラエボは冷たい淡雪が舞っていた。

 雪とイスラム。なんとなく不似合いだ。
  砂漠とイスラム。これが似つかわしい。

ボスニアヘルツェゴビナにはイスラム教寺院のミナレットが堂々と建っていた。 正午にはコーランの、礼拝時間に入ったことを知らせるアザーンの厳かな響きも聞こえた。 まるでアラブ世界を旅行しているようだ。モンテネグロからイスラム教の国々がつながる。

火薬庫バルカン
 19世紀末からバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれている。
20世紀になってもユーゴスラビア連邦の崩壊にともなう内戦は勃発している。 セルビアとクロアチア、ボスニアヘルツェゴビナなどで民族浄化という過酷な問題はまだ解決されていない。 コソボ紛争は続いている。21世紀でもまだバルカンは火薬庫なのである。

コソボの戦い
 「火薬庫バルカン」という比喩は、14世紀末の「コソボの戦い」から始まった。1389年にオスマントルコとセルビアなどキリスト教国の連合軍はコソボ平原で会戦した。「コソボの戦い」によってセルビアは完敗し、オスマントルコによるセルビア、マケドニア、ブルガリアの支配が始まった。
「コソボの戦い」は西欧諸国及びセルビアにとり屈辱の記念碑となっている。
今でも民族的悲劇として後世に語り継がれる。

現代のコソボはイスラム教徒のアルバニア人の土地になっている。セルビアから分離独立した小国。人口は約180万人。
コソボはアルバニア人の国になり、国旗は独自のものであるがアルバニアの赤い色に黒い鷲を使っている家々も多い。 アルバニアと一緒になりたいのだ。セルビアとは1998年からコソボ紛争を続けている。
セルビアは今でもコソボの独立を認めていない。セルビアにとりコソボは屈辱の土地なのである。

汎スラブ主義と汎ゲルマン主義
 「火薬庫バルカン」と呼ばれる要因は、ロシアの汎スラブ主義とドイツの汎ゲルマン主義を標榜した両国の利権獲得競争までに遡る。
オスマン帝国というイスラム教の多民族国家は、19世紀になると急激に衰退していった。スルタン封建制度は西欧化に馴染めなかった。
バルカン半島は、スラブ系、アルバニア系、トルコ系など様々な民族が入り乱れて、民族同士の対立もある混乱した地域であった。 さらに正教、カトリック、イスラム教など宗教的対立も加わった。憎しみのバルカンとなった。
約400年はオスマントルコによる支配では平穏だったが、オスマン帝国は近代化を取り入れる努力もなく19世紀になり急激に弱っていった。 その機会をとらえて、19世紀以降には、セルビアやモンテネグロ、ブルガリアなど小国が続々と独立した。 ロシアとドイツさらにイギリスとフランスなど列強はバルカン小国の内政に干渉していった。

    

サラエボ事件
 一枚の巨大な絵画は、サラエボ事件の原因とされる暗殺の現場を描いている。 1914年6月、オーストリアの皇太子がボスニアヘルツェゴビナ地方の中心都市サラエボで暗殺された。 暗殺した犯人がセルビア人だったため、サラェボ事件の後、オーストリアとセルビアの関係が急速に悪化。 そして1914年7月、オーストリアがセルビアに対して宣戦布告。 オーストリアの背後にはドイツ、セルビアの背後にはロシアが付いていたため、争いは他国を巻き込んでどんどん大きくなり、 第一次世界大戦へと発展していった。

「デチャニ修道院」
 コソボのブリズレンはみぞれ大雪だった。ページにある「デチャニ修道院」を見学した。 周辺は物々しいNATO派遣のコソボ治安維持部隊によって警護されていた。 アルバニア人の国となったコソボはイスラム教徒も多いので、セルビア正教のデチャニ修道院は狙われているからだ。
コソボではセルビア人は少数派であり、セルビアとコソボは犬猿の中になっている。 修道院内の大聖堂は、ビザンチン美術における現存最大のフレスコ画が残る。 背の高い親切な修道院長からイコンについて説明を受けた。

アルバニア・チラナ
 首都チラナは2度目である。2021年春にチラナ空港に到着してバス旅行を始めた。 アルバニアからモンテネグロのコトルに行った。黒こげの廃墟となったビルがありユーゴ内戦の傷跡が当時残っていた。
2023年のアルバニアは物凄く近代化されてチラナは高層ビル建設のラッシュだった。
スカンデルベグ広場でアルバニアの英雄、スカンデルベグの巨像を眺めた。 別名、イスケンデル・ベイと呼ばれている。イスケンデルはイスラム系の「アレクサンダー」ではないか。 スカンデルベグは、15世紀のアルバニアの君主であり、オスマン帝国に抵抗した民族的英雄である。
アルバニア人はスラブ語とは違うイリュリア語を話す。しかもキリル文字も使わないでアラビア文字を使ってきた。 20世紀初めになりラテン文字を使うという変わった文字文化を持つ。
真っ赤な旗には黒く双頭の鷲が描かれている。それは「鷲の国」を意味し、アルバニア人が鷲の子孫であるという伝説に由来。

ホッジャのトーチカ
 アルバニアは1944年から1954年まで10年間も鎖国を続けた。
英仏独など欧州、米国や日本など、同じ共産主義国である東欧とソ連や隣の国ユーゴスラビア、さらに共産中国とも断交して孤立化した。
この政策はアルバニア労働党(共産主義)の第一書記(首相)ホッジャによって独裁的に行われたものだった。 アルバニア国内に数十万のコンクリート製のトーチカを設置させて、外敵から防衛する国土をハリネズミようにするものだった。 ホッジャ主義は、ヨシフ・スターリンの定義したマルクス・レーニン主義の教条を厳格に守り、他の全ての共産主義の派閥を「修正主義」と激しく異端視した。 中国の毛沢東思想までも異端とした。まるで狂信的な宗教のようだ。紅衛兵の荒れ狂う時代やポルポト時代のカンボジアのような歴史である。
この鎖国によってアルバニアは欧州一最貧国となった。

ベラート(Berat)「千の窓を持つ町」
 アルバニア南部にあるベラトは、城塞と町並みが魅力的だった。山頂にはベラート城砦があり、景観が素晴らしい。 紀元前2300年にイリュリア人によって砦が築かれたのが始まりであるという。 眼下に広がるベラート市街の絶景。屈曲する川の両側に美しい市街が広がっている雄大な景色が見えた。

城塞の下の旧市街は急斜面に家々がぎっしりと建てられ、各家は効率よく採光するよう縦長の窓がずらりと並んでおり、色合いも統一され、白い壁に映える町並みが美しい。 家々の窓が千の眼のようにも見えた。

● YouTubeのスライド動画(約3分)

「バルカン半島7か国の旅」
数十枚の旅の写真が自動的に表示される。音楽はバルカン半島諸国の民謡。



https://youtu.be/Ul_XnqwYziw

 

(続く)

(1) 「イスカンダル大王に会う」 

北マケドニア・スコピエとオフリッド湖                   
(2) 「正教とイコン」 

ブルガリア・セルビア・モンテネグロ                

(3) 「火薬庫バルカン」

アルバニア・コソボ・ボスニアヘルツェゴビナ


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