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    Nice to meet  y ou !!

 この一言で世界中に友達ができました。 

        動画「傘寿の庭に薔薇が咲いた」(約5分)

    (薔薇の動画と音楽を楽しみながらお読みください)

       

 

歴史・民族・言語

世界は生き生きとした姿を示してくれます。私の海外旅行の楽しみは、「歴史・民族・言語」の3点セットです。歴史的場所で土地の素朴な人々に会い、彼らが喋る言葉を聞くことです。買い物と食べ物にはあまり興味がありませんから、厳冬の観光客が少ない時期が私の好みに適しています。

   

        神は偉大なり(アッラーフ・アクバル)

カタールのドーハやエミレーツのドバイは今や巨大なハブ空港となり、世界中の国々へも飛ぶことのできる便利なゲートウェイとなりました。イスラエルの若者は頭にキッパと呼ぶ小さな帽子を付けていました。「シャローム」と呼びかけると嬉しそうに微笑んでくれました。

        

私が3回もイスラエルに行きましたというと、貴方はユダヤ人ですかと逆に質問してきました。今度は「サッラーム」とアラビア語で、続いて「神は偉大なり(アッラーフ・アクバル)」と答えると大笑いになりました。

          

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 ブルネイ 

 「アッラーの他に神はなし」

              2024年12月10日

     「アッラーアクバル」

   "アッラーは偉大なり、アッラーの他に神はなし"

ハッジ・孝とハッジャ・栄子は敬虔なイスラム教徒に変身した。
「ハッジとハッジャ」とはイスラム教聖地メッカへ巡礼を済ませた男女に与えられる尊称である。 ブルネイ王国は厳格なイスラム教国である。

モスク礼拝服の着用が義務付けられている。
女性は、「ヒジャブ」という頭や身体を覆うマントを被る。髪を見せてはいけない。 男性には、帽子を頭に着け「目を伏せて婦人をじろじろ見るな」という教えがある。
老夫妻は伝統的な礼拝衣装を着け緊張した。まるで巡礼旅の雰囲気になった。
酒飲みは悪魔の所業とされ一滴のアルコールを飲むことも御法度である。
何事にも厳しいイスラム戒律がある。偽ハッジにとり長期滞在は耐えられないだろう。

  ブルネイはどこにあるのか ?

ブルネイ王国はボルネオ島の北部に位置する。赤道に近いので熱帯雨林気候である。
正式名称は「ブルネイ・ダルサラーム国」と言う。
ブルネイ国王「ハサナル・ボルキア」はスルターンと呼ばれている。ハンサムなアラブ系のお顔である。
ブルネイ王国の面積は三重県と同じ広さで人口約44万人。
石油や天然ガスなど地下資源に恵まれた豊かな国である。

サラセン様式の「ボルキア・モスク」は豪華な大理石造で純金のドームが輝いていた。その内部は5000人が一度に礼拝できる巨大な礼拝堂。
老夫婦はメッカ方向に祈った。イスラム世界に「アッサラーム平和」が訪れるようにと祈願した。

   「アッサラームアライクム」  
         "アッラーの御加護を"


この言葉はブルネイ人にとり日々の挨拶になっている。穏やかで微笑みが素敵な人々である。 イスラム諸国のイメージは砂漠であるがブルネイは緑豊かな海洋国だった。        


マレーシア・サバ 

 「キナバル山とボルネオの自然」

                2024年12月8日

     

 キナバル山  「南国の山に雪が降る」
ニューギニア侵攻の日本軍の物語「南の島に雪が降る」を思い出した。
その雪は白い紙きれだった。雪国出身兵士が故郷を懐かしむ内容だった。

赤道近く熱帯密林に囲まれたキナバル山に雪が舞うこともある。
キナバル山(標高4095.2m)はボルネオの最高峰である。
富士山(標高3776.12 m)よりも高い。

キナバル山は成層火山であるから広大なすそ野をもつコニーデ型になっている。 溶岩や火山砕屑物が交互に堆積してできた円錐火山である。浅間山にも似ている。

二つの山姿を比べてみた。
キナバル山は力強い岩肌が魅力であるから男性的。
富士山は柔らかな美しい裾野を広げるから女性的。

  「富士は世界一の日本美女」
     富士山の美しさをあらためて実感した。

  「キナバル山は南国武者」
      ボルネオを守護する野武士の風格がある。

あまり褒め過ぎたのか雲が湧いて来て山頂を隠した。

「カリマンタン」
ボルネオは熱帯密林の巨大な島である。面積は日本の約1.9倍の大きさ。
その7割はインドネシアで残りがマレーシアに属している。
鉱物資源が豊富で、石油、石炭、ダイヤモンド、金、銅、スズ・鉄、
さらにマンガン、アンチモン、ボーキサイトなどが産出する。

インドネシアはその昔、オランダ領でマレーシアは英国領だった。
ボルネオは帝国主義時代の歴史を物語っている。
マレーシア領はサラワク州とサバ州そして直轄領から構成される。
インドネシア領は5つのカリマンタン州から構成される。
インドネシア人は「カリマンタン」と呼ぶ。

熱帯自然の宝庫
短いトレッキングを楽しんだ。細く長い吊り橋を恐るおそると渡る。
珍しい鳥の鳴き声が聞こえてくる。深いジャングルは野生動植物の世界である。 密林には野生の蘭や食中植物である巨大なウツボカズラが咲いている。大きなラフレシアも見られる。 巨大なアリやミミズ。チョウチョも大きく飛び方も変わっている。 ジャングル探検のようなワイルドなトレッキングになった。 リバークルーズで野生の蛍が群生するマングローブ河川を進んだ。天狗猿は親子で密林から歓迎してくれた。真っ赤な長い鼻が特徴だ。
北部にはスマトラサイ、ボルネオゾウが生息し、その他、オランウータン、テナガザルなど哺乳類が生息する。 爬虫類ではワニ、ニシキヘビなどが生息している。野生オランウータは大切に保護されている。

  ボルネオは超巨大な自然動植物園といえるだろう。

 首狩り族
ボルネオ島先住民の村を訪問した。首狩り族「ダヤック族」が住んでいる。焼酎味の濁酒を密造していた。 幼い頃から戦士として育てられるダヤック族は、未だに首狩りの伝統を受け継いでいる。思わず首筋を確認した。
首狩りは儀式である。首級をあげる宗教的な慣行。台湾原住民、ニューギニア、アフリカ、南アメリカなどにも存在した。
日本でも武者は戦いになると「首を取る」という首狩り自慢はあった。切腹は首狩り族には存在しない。
ダヤック族のお嬢さんは美人ぞろいだ。なんとなくフィリピン美人と似ている。 ニッコリと微笑んでくれた。熱さは吹き飛んだ。

ボルネオの自然を世界で大切に守ろう。キナバル山よ、ボルネオの自然守護を宜しくお願いする。


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トルクメニスタン  「地獄の門」 2024年10月15日

  「突厥」
「とっけつ」と読む。
そこは「突厥の世界」だった。
「突厥」とは「テュルク」のことである。
すなわちトルコ人であり「トルコ人の世界」といえる。
トルクメニスタンは突厥帝国の末裔である

カラクム砂漠
ウズベキスタンの大河「アムダリア」を渡りウルゲンチから国境を越えた。
トルクメニスタンは初めての訪問である。
首都アシハバードまでカラクム砂漠を4輪駆動車に乗り悪路を走破した。
途中「地獄の門」を見物するためである。砂塵が吹きまくる荒涼とした僻地。
その夜はカラクム砂漠でガラオイ天幕の中で一晩過ごした。
暗闇のカラクム砂漠は満天の星座に包まれ月は煌々と輝いていた。

夢を2つ見てうなされた。
その一つは地獄に落ちる夢。真っ赤な炎に包まれたクレーター、「地獄の門」そのものである。 いま一つは天国に昇天する夢。「天国の門」をくぐり抜けると若き天女に囲まれた。 トルクメンの踊り子が影絵のように写る。幻想的な夢だった。

「地獄の門」
1971年の天然ガスの採掘事故以来、真っ赤な炎が燃え続けている。
これは世界遺産でも何でもない。むしろ地球を汚す負の資産といえる。
吹き出したガスの炎が火口に広がる巨大な穴である。イスラム教でも地獄に落ちると火に灼かれのだろう。 「地獄の門」は新たなトルクメニスタンの名所になっている。まもなく燃え尽きるだろう。

 

 「天国の門」  

  「安息」
「安息日」、サバトなのか ?
 ユダヤ教に関係があるのか ?

現代の「トルクメニスタン」にあった国名「安息国」である。
「安息」はパルチアの中国名である。
司馬遷『史記』にも「安息」という名前を見つけることができる。
今日のパルチアは民族も様変わりしてトルクメン人の国になっている。

万国博パビリオン

真っ白な大理石のパビリオンが点在する。 人通りもまばらで、人々はまるで人形のように歩いていた。 トルクメニスタン首都、アシハバートは万国博会場といった感じだ。 この世の天国をアピールしているようだ。
建物は白色、車も白一色、道路は直線、異様な雰囲気の街並みである。
街行く人々も同じような服装、男は黒色の背広姿、女性は色鮮やかな民族衣装を着ている。 怪しげな新興宗教を信じこむ操り人形達、ゾンビのようで気持ちが悪い。

トルクメニスタン皇帝
朝テレビをつけると大統領「セルダル・ベルディムハメドフ」の顔と従う軍幹部の顔が写った。 忠誠心を強調して拍手していた。世襲制で皇帝のような振る舞いである。 全体主義で強権国家。もし北朝鮮が豊かな国ならば、トルクメニスタン帝国のような独裁国になっていだろう。
トルクメニスタンは豊富な石油や天然ガスを埋蔵しているという。
面積は日本の約1.3倍、人口は約610万人。お金持ちの国である。

動画と音楽 「トルクメニスタン紀行」(4分)

 

 「突厥の結婚式」

トルクメン貴婦人
私は伝統的なトルクメニスタン衣装をまとう貴婦人と一緒に写真に納まった。
日本人の髭面老人と抱き合うようでしばし我慢してくれた。目鼻立ち彫りの深いトルクメン美人。

トルクメニスタンのことわざに、「突厥」の顔を忘れたらトルクメン女性を娶れという。そうすると先祖帰りしてモンゴロイド系の赤子が生まれるそうだ。まるで日本人と同じ人相になる。

若き花嫁と結ばれる
トルクメニスタンの部族、セルジューク族の結婚衣装は40Kgもある。
きらびやかに刺繍された赤いドレスはジュータンのように重い。
可愛そうになったが私の帽子も羊の毛でできていて王冠のようだ。
こんな綺麗で可愛らしい花嫁と一緒に暮らせるのだからと我慢した。
花嫁は40日間、人の前では口をふさぐのが習わしである。
相手の花嫁は大変迷惑そうに私と一緒に写真で結ばれた。

訪れた民家では、若き花嫁が主食ナンを伸ばし千切り揚げパンを御馳走してくれた。「突厥」には美人が多い。唐の玄宗が愛した楊貴妃は「安息」の美女であるという。 美女達と一緒になり興奮していると老いた本妻から厳しい叱責を受けた。


 「ニサ遺跡」 

ニサ遺跡は溶けた砂山
ニサはアシハバート郊外に残る「安息」の遺跡だった。紀元前3世紀頃に成立したパルティア王国の首都として機能していた。
パルティアは紀元前3世紀から約5百年にわたり、イラン高原を支配したイラン系民族の国家。大月氏と同じソクド人国家だった。ローマ帝国と争ったという。それ以前はアレクサンダー大王も遠征して来たバクトリア。歴史マニアには実に魅力的な地域なのである。
「安息」はイラン系で「突厥」はトルコ系ということになる。現代のトルクメニスタンはトルコ系。お隣のイランはイラン系。
アシハバートから車で30分ほど走り「コペトダグ山脈」を越えるとイラン(ペルシア)の地になる。言語と顔付は変わる。ダリウス大王のような真っ黒な髭を付けたペルシャ人の世界になる。ペルセポリスを想い出した。
現代のイランはシーア派イスラム教国になっている。しかもスンニ派アラブ諸国を支援してまでイスラエルに敵対している。
中央アジアから中近東の歴史は刺激的で面白い。

トルコ人の世界
中央アジアは、ウイグル(中国西域)からカザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンなどトルコ人の世界である。 キルギスやシベリアのヤクーツクやカフカス山脈のアゼルバイジャンもトルコ人の世界に含まれる。 もちろんその中心は今日でアナトリアのトルコ共和国である。さらに驚くことにドイツにトルコ系移民は数百万人も住む。 「トルコ人の世界」は東のウイグルから西のドイツまで拡大され世界的規模で繁栄している。
エルドアン大統領の喜ぶ顔を想像した。


「メルブ仏教遺跡」  

メルブ遺跡でサンスクリット文字
メルブはカラクム砂漠の中にある、中央アジア最大の遺跡。トルクメニスタンではマリイと呼ばれている。 シルクロードのオアシス都市として栄えた。人口は100万人に達したといわれる。イラン系民族である。
13世紀にはモンゴルの攻撃を受けて徹底的に破壊された。

「西暦522年」
それは6世紀である。522年は「突厥」という帝国は誕生した。
現代のアナトリアに存在する「トルコ共和国」は、「522年」をトルコ建国年として祝日にしている。
東方モンゴル高原で生まれた「突厥帝国」はモンゴロイド系の人相だったが、現代のトルコ人は全く異なる。 顔つきはコーカサイド系で白人顔も多い。「突厥」は「シャーマニズム」から「イスラム教」に変わった。

アッラーアクバル
メルブには仏教が伝播しており、経文はサンスクリット語(梵語)で書かれていた。 おそらくパキスタンのガンダーラとアフガニスタンのバーミアンを経由して伝わった大乗仏教だろう。 バーミアンの仏様の巨大な立像はタリバンによって破壊された。イスラムは偶像崇拝を嫌う。
とんでもない罰当たりの行為といえる。タリバンは文化と芸術の破壊者なのだろうか。 神は唯一、「アッラーアクバル」。自分勝手な理屈ではないか。
宗教は哲学であり人生の精神的支えである。様々な宗教・宗派は平等で平和であるべきだ。哲学こそが人間を神へ導く。

チムール
帰りにウズベキスタンのブハラに寄りサマルカンドでチムール廟を訪れた。チムールはチンギス・カンになれなかった突厥人。 チンギス・カンの血筋を誇ることは中央アジア世界では当たり前である。 ロシアのイワン雷帝(16世紀)もチンギス・カンの系統にこだわりモンゴル系妃と結婚した。
「カン、汗」、「ツアリ(ロシア方言)」という名称は今でも中央アジアでも大変人気がある。


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 ブータン  「4輪駆動車(4WD)の冒険旅行」 2024年9月17日

シッキムは何処にあるのか。アッサムも知らない。
ダージリンは聞いたことがある。それ紅茶の名前 ?
ブータンは王国なのか。ドテラ姿で男前の国王。
チベット文化の影響が残るインド北東辺境だった。

老夫妻はブータンの民族衣装「ゴ,キラ」に着替えた。
男性用は「ゴ」、女性用は「キラ」と呼ばれている。
「ゴ」は、日本の丹前や「どてら」と類似している。
カメは、田舎の百姓姿になった。亡き爺様のお姿にソックリなのだ。
ブータンは古き日本とよく似ている。まるで信州・安曇野に居るようだ。

ブータン国王「ジグメ・ケサ」陛下に謁見した。
もちろん偽者であるが民族衣装の着こなしは男前である。
本物は、端正な容姿と気さくな振舞いで国民に人気があるという。
王妃はジェツン・ペマと呼ばれるブータン美人。妖艶な微笑み。

9月12日は「チェツェ祭り」が開催されていていた。
テンプーの王宮広場「タシチョ・ゾン」は民族衣装の人々で賑わっていた。老夫婦は4輪駆動車(4WD)に乗り込みシッキム・アッサム・ブータンを冒険旅行した。 悪路とカーブの続く登り道は4WDでなければ走破できないドライブだった。 出発地ベンガル州のシリグリは亜熱帯であるが谷間を登って行くこと200Km(約7時間)。 4WDのエンジンは苦しそうに唸り続けた。紅茶のダージリン(標高2500m)に到着した。

カンチェンジュンガは標高8586mもあり、エベレストそしてK2に次ぐ世界第3位の高峰。 ダージリンの急な街並みの背景に厳かに連なっていた。
カンチェンジュンガとは「偉大な雪の5つの宝庫」を意味する。

丹前姿の若者達はスマホを見ながら歩いている。
もはや世界に秘境辺境は存在しない。

(ブータン・シッキム・アッサム インド北東辺境の記録 約4分動画)

 

     「ヒマラヤのテーマパーク」   

インドは世界一の人口、そして世界一の貧困大国になった。モディ首相は悩み続けるだろう。 4輪駆動車に乗り陸路ブータンに入国した。アッサムとの国境の町プンツォリンは混沌とした昔のインドを思い出した。
騒音と埃、町は汚らしく未舗装のデコボコ道である。4WDは小船のように揺れ動く。信号などなく割り込む車の群れ。 道行く人も車も牛も生存競争している。やせた人々の顔は浅黒く堀の深いベンガル系ばかりだ。

徒歩でインドとブータンの国境を越えた。まるで別世界に入った。ブータン王国のテーマパークに入場した。 ブータン側は建物もブータン様式で美しく道路も綺麗だった。人々の顔は日本人そっくりのモンゴロイド系になった。
日本に帰国したような雰囲気になった。ガイドはドテラに似たブータン民族衣装を着ていた。

ブータンは「幸福の国」というテーマパークだった。まるで映画のセットのような街並みである。 これはヒマラヤ山麓を借りた偽りのシャングリアといえるだろう。 国王夫妻もディズニーランドの白雪姫のようなアイドル的存在なのだ。 美男美女のお二人は、まるでブータン・エンターテインメントのタレント。 ブータン国民にも日常生活がある。無理やり着せられた民族衣装「ゴ,キラ」は苦しい。 子供から学生も公務員まで時代遅れのブータン衣装を強制されている。 ブータン・テーマパークの重要な出演者だからだ。暮らしもあるから罰則は怖い。

ブータン王国は全体主義

英国作家「ジョージ・オウエル」はアッサムのダージリンで生まれた。貧困とカースト社会のインドを熟知していた。 彼の名著『1984年』のなかで全体主義国家の本質や残酷さを描いている。もしかしてブータン王国は全体主義なのか。 それはテーマパークという全体主義だろう。約70万人の国民ならば国中で幸せな人々を演じることができる。
幸福の国、グリーンエコロジーの国などスローガンは立派である。偽りの看板だろうか。ブータンの実力を知りたい。
実際のブータンはシッキム並みの実力しかないだろう。もともと観光とは偽りのホスピタリティで塗り固められたものである。
裏方の醜く惨めな現実を隠すのが観光である。観光客は短い期間だけ騙されて愉快になり出国する。
ブータン型テーマパークは長く続かないだろう。シッキム型テーマパークは貧困と汚いという別の楽しみがあった。


カメ老夫婦は二つのテーマパークに出演できて満足だった。

パロ空港の待合室はブータン民芸のアートギャラリーのようだった。
若き芸術家を育成することもテーマパークとして重要。

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アッサム  「グルカのドライバー」  2024年9月18日

4輪駆動車(4WD)は軍用車ジープに似たトヨタ改造車だった。屋根にはトランクなど荷物を載せてシートで包んでいる。
道路はカーブと急坂の連続でしかもぬかるみも多い。崖から岩も度々落ちるという危険な山道だった。 こんな細い道でもトラックやタンクローリーなど大型車両は行き交う。シッキムに通ずる幹線道路なのだ。 濁流の谷川側にはガードレールもカーブミラーもないから怖い。 勇猛なグルカ族の若者が4WDのドライバーになっている。ハンドル操作は慣れたものである。
グルカとはネパール人を総称するが民族名ではない。一般にネパール山岳民を呼ぶらしい。 その昔、香港でグルカ警備兵を見たことや英国のグルカ大隊を思い出した。 ドライバー「ジキット」は日本人に似た人相であるから気楽に道中、雑談を交わしていった。

西ベンガル・シリングを出発してシッキムに入り、州都ガントクに到着した。
さらにカンチェンジュンガ霊峰を眺めるためにアッサム高原にあるダージリンまで登った。 そして西ベンガルに戻り熱帯の紅茶畑を見ながらブータン国境町プンツォリンまで走破した。

道筋は始点シリグリ(西ベンガル州)からガントック(シッキム州)、 そしてダージリンに行きアッサム州を通りプンツォリン(ブータン国境)に到着。
まる3日間の4WDの山岳ドライブ旅だった。元グルカ兵ドライバーに深く感謝した。

シッキム王国
「え?どこ??」
インドから少し出っ張った場所がシッキム州。州都はガントクである。
シッキム地方はインドの北東、ネパールとブータンに挟まれた中国とバングラデシュにも隣接する地域。 中国(チベット)との国境線が不明確なので争っている。インド軍の精鋭が警備していた。
観光には適さない危険地帯と言えるだろう。
シッキムは以前、インド領土ではなく1900年代までは1つの独立したシッキム王国だった。 1975年に正式にインドに併合された。住民はモンゴロイド系のグルカ人が多く住む。

ダージリン
カンチェンジュンガは「偉大な雪の5つの宝庫」を意味する。アッサムの深い谷間で猿が迎えてくれた。 深い谷底から山頂まで人々は暮らしていた。こんな山奥に約100万人も住んでいるという。
ダージリンは英国の植民地時代から避暑地として、そして紅茶栽培の地として栄えてきた。 有名な英国女優「ヴィヴィアン・リー」はダージリンで生まれた。「風と共に去りぬ」(1939年)でアカデミー賞を受賞していた。
彼女の父親は駐印英軍の将校だった。こんな僻地で生まれた彼女は努力家だったのだろう。
英国の作家「ジョージ・オウエル」は1903年にダージリン近郊で生まれた。 オウエルは全体主義国家の本質や残酷さを細かく描いた傑作『1984年』の作者である。 彼のスペイン内戦の経験をもとにした「カタロニア讃歌」を読んだことがある。左翼思想に熱中したこともあった。
泊まったホテルの廊下には、「タゴール」(インド詩人)「マーク・トウェイン」(米国作家)「テムジン」(エベレス征服シェルパ)など多くの著名人の名前が誇らしげに表示されていた。ダージリンの偉人達のプロフィールを興味深く楽しんだ。

ダージリン・ヒマラヤ鉄道(DHR)
ダージリン・ヒマラヤ鉄道(Darjeeling Himalayan Railway)は遊園地にあるミニ鉄道だった。 最高点は標高 2143 mまで達する世界最古の山岳鉄道である。軌道幅610mmなので揺れる。 路線の建設が開始された1879年当時はインドはイギリス(大英帝国)の植民地であった。
ダージリン紅茶の輸送と避暑客の便宜を図るために建設が開始されたという。
ヴィヴィアン・リーも美少女の時代に、このDHRに乗り演劇の世界を夢見たに違いない。

ホテルでカンチェンジュンガを遠望しながらダージリン紅茶を嗜み優雅な時間を過ごした。


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ソグネ・フィヨルド 「ノルマン人は出航した」 2024年7月23日

  新婚カップルは抱き合っていた。
  その横で老齢カップルも負けじと老婆の肩に触れる。

北アルプス並みの高山がいきなり海面からそそり立つ。海岸線は断崖絶壁。
リアスと呼ばれる複雑な奥深い入り江はU字谷を形成している。
山頂には残雪があり幾筋もの滝が流れ落ちている。
ノルウェーのソグネ・フィヨルドは雄大な神々しい大自然だった。

同船したインド人はつぶやく。
フィヨルドは神の存在を感じるほど美しい・・・!!。

こんな絶壁に囲まれた湾はヴァイキングにとり絶好の隠れ場であった。
ヴァイキングの語源は、フィヨルドのことをヴィークと呼ぶことから、そこに住む民を「ヴァイキング」と呼ぶ。
英雄伝説『サーガ』はルーン文字によってヴァイキングの偉業を石碑に刻む。キリスト教布教以前のフィヨルドの歴史。

(ソグネ・フィヨルドの自作動画。音楽はグリーグ ピアノ協奏曲 イ短調 作品16 第一楽章。約5分)

ノルウェーのヴァイキングは「ノルマン人」と呼ぶ。
フランス・ノルマンディーに定住したノルマン人は、11世紀にイングランド王国を征服。フランス語をイングランドに広めたノルマンディー公ウィリアムは文化人だった。角のある兜を被った海賊や略奪を働く戦士姿のヴァイキングからは想像もできない。さらにロシアとウクライナの建国にも関係し、遠くビザンチンまで足を運んでいる。 ヴァイキングは略奪を専業としていたのではなく交易の民だった。

ノルウェーのソグネ・フィヨルドからノルマン人は出航していった。

(グリーグ: 「ペールギュント」組曲:朝[ナクソス・クラシック・キュレーション #ファンタジー])

56年前(1968年)のフィヨルド写真
大学の後輩から56年前(1968年)のフィヨルド写真をもらった。当時、彼は医学部学生だった。 驚くのは大胆な日本の若武者の行動力。1ドル360円の時代にスイス最高峰モンテローザに登った後に、フィヨルド地方に行ったという。 こんな後輩が56年前に友人だったという事実、嬉しくなった。   

   

 K後輩からのメールである。

若い頃、海外旅行が初めての時(56年前の夏)シンスケとスイス最高峰モンテローザに登った後に、フィヨルド地方へ行った思い出があります。
オスロからレンタカーでフィヨルドに滝の落ちるガイランゲルフィヨルド、氷河が落ち込むノルドフィヨルド、長大なソグネフィヨルドなどを回り、 民間のユースホステルに泊まりました(どこも素晴らしくて1泊2食800円)。一番奥の狭いフィヨルドほど美しかった記憶があります。
オスロへの帰路ヨツンハイメン高原に寄りました。セピア色の写真になっていますがご覧ください。(続き)

(1)ヘルシンキ 「図書館は民主主義の原点」 2024年7月20日

(2)ベルゲン 「ハンザ同盟の港町」 2024年7月15日

 


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 ウェールズ 『わが谷は緑なりき』 2024年6月19日

名女優「モーリン・オハラ」は大家族の娘役だった。
勝ち気な女性役は彼女に適役なのだ。
その映画は、ウェールズの炭鉱町を舞台にしていた。

『How Green Was My Valley』

原題よりも邦文は素晴らしい名訳である。

『わが谷は緑なりき』

1942年に名匠ジョン・フォードが監督した映画だった。
19世紀末ウェールズの炭鉱町で暮らす家族の絆を描いていた。

ウェールズには石造りの小さな長屋が建っている。
モーガン家の男たちは地下の炭鉱から帰るとススで真っ黒な顔ばかりである。
細い小道の先でどんな小さな家にも庭先に白バラが咲いている。

私は麗しの北ウェールズにいるのだと心躍った。
その夜はコンウィ(Conwy County Borough)のエールで乾杯した。

(『わが谷は緑なりき』の要約動画。約10分)

初老となったヒュー・モーガンは生まれ故郷のロンダの谷を出ようとしていた。ヒューは谷が緑だった頃、一家みんなが揃って幸せだった少年時代をしみじみと回顧する。

『わが谷は緑なりき』(How Green Was My Valley)は、1941年のアカデミー賞最優秀作品。ジョン・フォード監督作品。ウェールズ地方のある炭坑町を舞台に 善意と誠実さを貫いて生きる人間の姿を描いた。どのシーンをとっても心に染み入る忘れられない場面だった。ありがとう。

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 スコットランド 『ロッホ・ローモンド』 2024年6月23日

センチメンタルジャーニーになった。エディンバラは38年前に訪れたことがある。 1986年にエディンバラ大学で開催された学会に参加した。
あの頃は町中が煤で真っ黒なので綺麗な印象を持てなかった。

帰り道、インバネスと北海油田で活気にみちたアバディーンを廻った。
ハイランド地方は氷河期にできた湖水が点在しいる。

  『ロッホ・ローモンド』

ロッホ・ローモンドは、スコットランド西南部のローモンド湖を歌ったスコットランド民謡。 原題は『The Bonnie Banks O' Loch Lomond』。

「ロッホ(loch)」とは、スコットランド方言で「湖」を意味する。

  "そこには美しき岸辺があり
  そこには美しき丘が広がる
  ローモンド湖に太陽の光輝く
  過ぎ去りし陽気な日々
  美しき岸辺 美しき丘 ローモンド湖"

(『ロッホ・ローモンド』の動画 歌詞とスコットランド風景。約10分)

バグパイプの哀愁ある音色を聴き、シングルモルトを口に含む。
泥炭(ピート)の煙たい香りとアイラの海の風味がひろがる。

(日本名「蛍の光」をスコットランド衛兵がバクパイプで演奏する。約5分)

  "Should auld acquaintance be forgot,
   and never brought to mind ?
   Should auld acquaintance be forgot,
   and days of auld lang syne ?"

  "旧友を忘れ 思い起こすことがなくても良いのか?
   昔懐かしい日々を忘れても良いのか?"

亡き友のためにもう一杯、シングルモルトの杯を酌み交わした。

背を真っすぐに姿勢を正し頑張ろう。スコットランド衛兵のように・・・

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イングランド   「ストーンヘンジ」  2024年6月25日

遺跡のカラスから笑われた。
こんなデカい岩を見に来て何が楽しいの ?? (カアカア)

巨石が並んでいるだけである。太陽崇拝の祭祀場なのか・・。
岩を積み上げた巨大なピラミッドやインカ遺跡などに比べると寂しい感じだ。
英国に似つかわしくない遺跡といえる。アーサー王伝説なら良かったのに・・・。

ブリトン島にも巨人が住んでいたのか ?
私は右の手平に巨石をのせてみた。
軽いもんだ !!

ストーンヘンジ(Stonehenge)は、イギリス南部・ソールズベリーの草原に残っている。
馬蹄形に配置された巨大な門の組石(トリリトン)を中心にして直径約100mの円形に高さ5m程の30個の立石(メンヒル)が配置されている。環状列石(ストーンサークル)になっている。

古代の天文台なのか ?

重い玄武岩。組み立てるには巨大なクレーンが必要になる。
誰が造ったのか、その目的は何であったのか、謎である。

無機質な巨石群なのでロマンはなさそうだ。謎の歴史だけを語ってくれる。
ブリタニアは、古城遺跡だけが魅力あるロマンを語ってくれると思う。


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コッツウォルズ  「ライムストーン」  2024年6月22日

蜂蜜色の石である。黄色みを帯びた石灰岩。コッツウォルズ (Cotswolds)の建物群は「ライムストーン」一色だった。 そこに緑のツタが絡まり白いバラも満開だった。これこそ英国古民家なのだ。憧れの蜂蜜色の石で造られた長屋。 ウイスキーとエールが飲みたくなった。そして歌は「グリーンスリーブス」だろう。

(Greensleeves - tin whistle version by Leyna Robinson-Stone)

英国は田園が美しい。高い山は少なく緑の丘陵がどこまでも続く。
どこに麦畑があるのか、野菜畑を見つけることは難しい。ビニールハウスやソーラーパネルなど全く見つけることはできない。景観保護は厳しい。
緑の草原を仕切る石垣(石の柵)が森の端まで連なる。羊や牛などがのどかに牧草を食べている。 この石の柵は平たいスレート状の石を積み上げたものだ。木製の柵と違い雨風にも強く、苔むして風情がある。

(ウィンダミア湖を遊覧した。草原にはウサギに注意とサインがある。お屋敷から古びた家まで、昔の古民家のたたずまいを大切にしている。)

「ピーターラビット」が飛び出してきた。
湖水地方(Lake District)は、なだらかな渓谷沿いに大小無数の湖が点在する。 風光明媚な保養地でもある。小さなB&B(民宿)がどこにでもある。
牧草地を横切る小道のサインに「ピーターラビット」に注意と表記されていた。原作者「ビアトリクス・ポター」に敬意を表している。

ここは、偉大な自然詩人「ワーズワース」の故郷である。
彼は湖水地方をこよなく愛し、純朴であると共に情熱を秘めた自然讃美の詩を書いた。「ワーズワース」は、詩とは人間の心のように不滅のものであるという。湖畔の水仙について有名な詩を書いている。
大好きな詩である。うろ覚えだがコトバにした。そこには私の青春があった。

   I wandered lonely as a cloud
  That floats on high o'er vales and hills,
  When all at once I saw a crowd,
  A host, of golden daffodils;
  Beside the lake, beneath the trees,
  Fluttering and dancing in the breeze.

  谷間をただよう雲のように
  一人さまよい歩いていると
  思いもかけずひと群れの
  黄金に輝く水仙に出会った
  湖のかたわら 木々の根元に
  風に揺られて踊る花々

ウィンダミア湖を遊覧した。 Windermereはイギリス最大の自然湖であるという。箱根・芦ノ湖と似た雰囲気だった。
船上で『The Water Is Wide』を口ずさんだ。音痴だからはずかしい。

  The water is wide, I cannot cross o'er,
  But Neither have I the wings to fly.
  Give me a boat, that can carry two,
  And both shall row, my love and I.

  その水辺は広く 向こう岸へ渡れない
  僕には飛んでゆく翼もない
  二人を運ぶボートがあれば
  恋人と僕で漕いでゆくのに

(The Water Is Wide 悲しみの水辺 / Karla bonoff カーラ・ボノフ)

 

 リバプール 『ヘイジュード』 2024年6月25日

リバプールを初めて訪れた。スラム化した港町からビートルズは誕生した。
アイリッシュ海に面した貿易港。対岸のアイルランドから定期便のフェリーが通っている。アイルランド人は多く住んでいる。

(マッシュストリートはビートルズが最初に歌った飲み屋街である。)

(ロンドンのバッキンガム宮殿周辺は天皇夫妻を歓迎するために大きな日章旗が掲げられていた。老夫妻も歓迎の群衆の中に入り込んだ。)

波止場に巨大な赤レンガ倉庫があり下関や函館などに似た港町である。19世紀初めまで奴隷の中継交易港で栄えた。 綿貿易と繊維産業で発展したが20世紀になると衰退した。ビートルズは観光の救世主になったのだろう。

Hey Jude, don't make it bad
Take a sad song and make it better
Remember to let her into your heart
Then you can start to make it better
Hey Jude, don't be afraid
You were made to go out and get her
The minute you let her under your skin
Then you begin to make it better
And anytime you feel the pain, hey Jude, refrain
Don't carry the world upon your shoulders
For well you know that it's a fool who plays it cool
By making his world a little colder
Na, na, na, naa-naa
Na, na, naa-naa

『Hey Jude』(ヘイ・ジュード)は、1968年8月にリリースされた。ポール・マッカートニーによって作曲された。

私は、この曲を聴くと1969年早春に修士論文を書いていた大学院時代を思いだす。ビートルズは好きではなかったが、この曲だけは特別だった。

  Na, na, na, naa-naa
  Na, na, naa-naa

この旋律の調子がとても気に入ったからだ。ほろ苦い想い出の曲である。

 


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韓国・慶尚南道 

 「名月とお姫様(コンジュニム)」

                     2024年4月20日

名月の夜に「コンジュニム」と過ごす。

「コンジュニム」とはお姫さまのことである。

「水原華城」の城壁は夕闇の中、美しくライトアップされていた。
名月にしては大きすぎるが、その代りとなる黄色のバルーンが浮かんでいた。
幻想的な城門に老夫婦のシルエットが浮かぶ。真っ白な姫路城と違った美しさがある水原の城塞だった。
コンジュニムは楼閣に座り、数名の女官達に守られていた。
伝統的な韓服を身に着けるチマチョゴリの美女達は綺麗だ。

髭面の爺様はニタニタと見つめていたら、女官頭からぎびしい目つきでにらまれた。

 慶尚南道の晋州市で「晋州城(チンジュソン)」を訪れた。「義妓祠」を詣でるためだ。 文禄・慶長の役(1592〜1598年)時代、日本の武者を抱きかかえて南江に身を投げて殉死した「義妓論介」を祀っている。
壬辰倭乱(イムジンウェラン)と呼ばれる日本の侵略。豊臣秀吉は極めて評判悪い。彼女は妓生(キーセン)で絶世の美女であったに違いない。晋州のジャンヌダルクといえるだろう。
「義妓論介」に抱き付かれたような虚ろな夢を見た。

(続き)

 --->  「仏教文化と食文化」


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ジャバ島 「仏跡とヒンズー教遺跡」を巡る  2024年2月14日

  妖艶な踊りだった。
真っ赤なジャバ更紗の腰衣を巻き付けていた。
手先の指が別の生き物のように優雅に動く。意味ありげだ。
ガムランの響きに合わせて、滑らかに腰を振る。
ジャバ舞踊の踊り子。

  

ジャバ島で仏跡とヒンズー遺跡を見物した。
ボロブドゥール遺跡(仏跡)とロロ・ジョングラン遺跡(ヒンズー教遺跡)である。 なんとなく不思議な気分だった。
今日のインドネシアはイスラム教徒が主体だからだ。
日常モスクからアザーンの声が聞こえて、人々はメッカに向けて祈る。

イスラム・ジャバ島でジャバ美人は誰もがスカーフを被っている。肌や足も見せてくれない。チャドルをスッポリと身に着けている。
あのセクシーな踊り子はヒンズー教時代の美女だった。
ボロブドゥール遺跡は世界最大級の仏教寺院である。興味深いことは「大乗仏教」。これは日本に伝わった大乗仏教と同じである。ビルマやタイなど東南アジアの「小乗仏教」と異なる。
8世紀に、早くも大乗仏教の王国(シャイレーンドラ朝)がジャバ島に存在していた。日本における大乗仏教の伝来は飛鳥時代(6世紀)だから、同じころにジャバは仏教国になった。
大仏様は奈良や鎌倉と違い正座しているのではなく、大きな椅子に腰かけていた。モダンなお姿。

  

立派な裸足を見せている。横たわる涅槃像は見たことがあるが椅子に座る大仏姿は初めて。大仏様は長い足で、やや股を広げていた。信者の話を熱心に聞いているという仕事スタイル。
ロロ・ジョングラン寺院は別名、プランバナン寺院群とも呼ばれている。
創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌ、破壊神シヴァの三大神を「三神一体」とするトリムルティ(Trimurti)。
キリスト教ならば、父(父なる神)、子(神の子キリスト)、聖霊を「三位一体」とするトリニティ(Trinity)。
「三神一体」と「三位一体」、多神教のヒンズー教と一神教のキリスト教との違いは面白い。
日本人にとり「三位一体」は厳し過ぎ、「三神一体」の方を好まれるだろう。万物神宿るという「万屋神一体」は日本のオリジナルといえる。なかなか知恵がある。 柔軟な信仰によって、宗教争いを出来るだけ避け仲良し日本文明を創り上げてきた。
あの踊り子の優雅な両手の動きは「観音菩薩」とソックリ。「観音さま」は踊り子だった。 「観音さま」は大慈大悲を本誓とし、人々を救済してくれる。

  イスラム世界のジャバ島で、あらためて仏教について開眼できた。

(動画 ケチャックダンスの映像 (3分) Youtube https://youtu.be/_xR-XlmLH3k )

 バリ島 「ケチャックダンスとバリ・ヒンズー教」 2024年2月19日

風が穏やかに吹き抜ける。
黄金色の夕焼けになり眼下にインド洋が広がる。
岩壁の上に野外劇場はあった。階段扇状のアリーナである。
大勢の男性が上半身裸の格好で円陣上に集まり、炎の明かりが舞台を照らす。

「チャッ、チャッ、チャッ」と大合唱は始まった。その調べは無伴奏で単調。
ケチャックダンスの物語は『ラーマーヤナ』に基づいている。それはヒンズー教の神話。 ヒンズーの踊り子は登場した。数人のダンサーたちがリズミカルに舞い始めた。 
白い猿神を演じる役者が観客席に紛れ込むなど、コミカルなシーンもあるから笑いで盛り上がる。ただ美女の表情は人形のように一切変えない。

バリ島住民は海洋民族だったのだろう。サモアやニュージーランドのマオリ族の踊りにも似ている。 アリーナは神秘のオーラで包み込まれた。バリ島は「神々の島」と呼ばれる。
一見したところインド発祥の「ヒンズー教」が主体であるというが、インド・ヒンズー教とは違う。
バリ土着の信仰と仏教やヒンズー教の影響を受けた独特の「バリ・ヒンズー教」を生み出した。 個人の家までが寺院の様式で、土地や祖先神へのアミニズム信仰は生きている。

宗教的な活動に多くの時間が使われている。バリ島では毎日、島のどこかで祭りが行われている。 ポリネシアなど海洋民族にとても似ているようだ。

遠くハワイからサモア、ニュージーランドまで広がるポリネシアと血のつながるバリ島の人々。
ヒンズー文化を取り入れたバリ島の文化、ハワイ・フラダンスよりも優雅なバリダンスであった。 バリ島はポリネシアの影響が残っている。

  

「ティルタンブル寺院」、「ウルワツ寺院」、「バトゥール寺院」、「タマランアユン寺院」などお寺を巡礼した。
バリ島は「神々の島」であったが今では「若者達の島」といえるだろう。ビーチはビキニ姿が溢れていた。
老夫婦にとり「終の島」といえる。終の棲家は椰子の木に囲まれて棚田に点在していた。
そこで過そこで過ごす『ラーマーヤナ』の美女との日々を夢見た。ごす『ラーマーヤ


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界の旅     香 港         2024年1月15日

   「愛とは豪華絢爛なもの」  

 彼女は待っていた。
  深いスリットが入ったチャイナドレスを着て。
   刺繍が施されたオレンジ色でとても素敵な衣装。

    Love Is a Many Splendored Thing
     愛とは豪華絢爛なもの

甘い歌の文句を並べてみた。そして映画『慕情』のシーンを思い出した。

 「ヴィクトリア・ピーク」に登った。
眼下に無数の摩天楼が香港島と九龍半島に広がっている。
日没前の夕日が高層ビル群の後ろに輝いている。ロマンチックな気分になった。 古びたスターフェリーから香港の夜景を楽しんだ。映画と同じ景色に感動した。

55年振りに訪れた香港は様変わりしていた。
英国(ユニオンジャック)から中国(五星紅旗)に変わっている。
それで香港人は幸福になったかどうか、未来の歴史が語ってくれるだろう。
古きよき時代の香港は、私の大切な思い出としていつまでも仕舞っておこう。
その夜は夢の中で『慕情』の女医ハン・スーインとめぐり逢いできた。

映画『慕情』の予告編をみながら名曲を聴いてみよう。

(出典 YouTube 慕情 (ハングル歌詞つき) アンディ・ウィリアムス Love Is A Many Splendored Thing 高画質 https://youtu.be/gkq5H9utV_E)

ストーリーは単純である。なんとなく『マダムバタフライ』と似ている。曲まで「ある晴れた日」にソックリだ。
美貌の未亡人ハン・スーインとアメリカ人の特派員マークのラブロマンス。
朝鮮戦争の記者として戦死したマークと再びめぐり逢うことを願うという悲劇で終わる。女医ハン・スーインの夫は中国国民党(蒋介石)の将校で戦死。
中国本土は毛沢東率いる共産党に支配されつつあり、多くの難民が香港に殺到していた。 反共的内容なので『慕情』は、中国では受け入れてもらえないだろう。

『慕情』は1955年に公開された作品。出演:ジェニファー・ジョーンズ(ハン・スーイン)、ウィリアム・ホールデン(マーク・エリオット)である。美貌女優ジェニファー・ジョーンズは36歳、相手役のウィリアム・ホールデンは37歳だった。主題歌は多くの歌手によってカバーされているが、オリジナルはザ・フォー・エイセスの楽曲。
何回みても見飽きることのない映像と曲なので、高画質のデジタルリマスター版であらためて観賞してみる。 (出典 https://youtu.be/lPDngfrBdFk)

アヘン戦争のトラウマ
香港は1842年のアヘン戦争によって英国に割譲された屈辱の土地だった。
アヘン貿易により莫大な富を得る英帝国主義は決して許されるものではない。
だが、英国の香港支配は西欧化をもたらし自由と人権など民主主義を植え付けてくれた。そして香港は東洋の真珠として中継交易で繁栄した。

戦後1945年の香港は、中国共産党と中国国民党との内戦から逃れてきた難民で溢れていた。 香港人は、1949年の中華人民共和国の成立、1966年の文化大革命、1989年の天安門事件など大陸の歴史を注視してきた。
香港は、英国の統治下にあって資本主義と民主主義を謳歌してきたが、1997年に中国へ返還された。 こうした古き良き時代は終わりを告げた。

香港大学と「雨傘運動」  キャンパスは高層ビルに囲まれていた。University of Hong Kongは、1911年に創立された世界屈指の名門大学である。 学生数は約2万人。卒業生には、中華民国を成立させた「孫文」がいる。 多くの学生たちは、「雨傘運動」と呼ばれる抗議デモに参加したそうだ。 そのデモは2014年の香港行政長官選挙をめぐって起こった。
それまで香港は「一国二制度」が認められて、香港のトップは選挙委員が選ぶものであったが中国政府の指名委員会から支持を受けなければ立候補ができないとされた。 これで香港の独立は完全に奪われた。多くの香港人は自由を求めてカナダやオーストラリアなどへ脱出した。
香港人の脱出の波は、二度あった。最初は1997年の中国返還である。多くはカナダに逃れた。バンクーバーはホンクーバーと呼ばれたこともある。 二度目は、これから始まるだろう。香港人はパスポートを複数所持しているという。 英連邦(British Commonwealth)があれば、英連邦に属するどこの国にでも行けるから安心だ。知人はロンドンを選び活躍している。

春節  華人の正月

 春節は、中国・中華圏における旧暦の正月(旧正月)である。全世界の華人にとって最も大切で伝統的な祝日となる。体制や思想は異なっても華人のは絆は強い。

2024年は辰(龍)年なので、2月2日から7日間は旧正月で賑わう。龍の形にちなんだ飾り付けが街角に見られた。 道路や建物、家のあちらこちらを赤で飾る。香港人も「赤」は春節のメインカラーである。二階建バスも真っ赤だった。

 香港人は大変親日的で、私たち老夫婦を大切に介護してくれた。誰でも英語を喋りフレンドリーに接してくれた。街角で微笑み、声をかけてくれた。
日本文化や日本食は人気があり、是非とも日本まで出かけていき楽しみたいという。 香港人は何事にも負けない活力があり、ビジネスセンスに優れた人々である。   日本での活躍も大いに期待したい。



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